【杉浦重剛 帝王学「教育勅語01」】[YouTube]教育勅語成立の背景と萬世一系の必然性 西欧・支那と異なる家族的王権構造

󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ

1.教育勅語公布の理由
西洋文物の急激な流入で、欧風に心酔して、なんでも西洋と言って、二千五百年あまり発達してきた我が国固有の文明も、世界無比の歴史的精神も振り返らずに、思想界が危機的状況になりました。 教育方針でも、古来からの国民道徳である「忠孝・節義(道義)・誠実」の美風は忘れ去られようとしています。 国民教育の主義や基準がないので、一方では極端な欧米風の主張と、もう一方では時代の変化に対して、頑迷固陋な人々がいて、混乱し、バラバラでまとまりがありません。
明治天皇はこれを憂慮されて「教育勅語」を公布されました 「我が国の歴史的精神」に基づく「国体の精華」を示し 「国民道徳の大本」を教えられました。

明治四十一年(1908年)菊池武夫男爵が英国で 「教育勅語」の講演をすると 英国の著名な学者や教育者が講演に感激して 日本の国体(国柄)の奥深さと、国民教育の確固たる基本を 羨望して「英国にもこのような大方針があれば国民教育にとってどれほど有効か」と言ったそうです。

2.「朕󠄁」
「朕」は、単数形で秦の始皇帝(259−210BC)が初めて使った言葉で君主が自らを呼ぶ言葉です。 天皇は自らを「朕」とおっしゃいました 。ですから、「朕」は一国に一人で、複数は許されません。
この文字(朕)の本場である支那では、君主が常に交代しています。臣が君になったり、外人が君になったり、同時に君子が複数並び立つこともあります。
君臣の分が決まらないと、「朕」という言葉は成り立たないのです。
日本国だけが君臣の分が定まって萬世一系で君子が朕と言えるのです。

3.「我カ」
我カは複数形です。朕が単数で天皇のみを示すのに対し 我カは我らがという言葉です。 「朕」と「我カ」で我が国の国柄を表すこともできます。
「朕」が君主が万世一系で「我カ」が日本家族主義を表すのです 。すなわち 「朕」が皇位の権威を示し 「我カ」が国民を赤子(純真な子供) とする温情を表します。

4.「皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ」
「皇祖皇宗」は、天皇陛下と日本国民のご先祖を指します。 先祖がこの日本を始めたのは天地とともに永遠に続くものです(天壌無窮といいます)
①天祖(天皇の祖先)の神勅 大昔、天照大神は高天原(たかまのはら)にいらっしゃってこの国を統治するために瓊瓊杵尊を下ろしました。 大神は、尊が臣下とともに降りるときに八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)八咫鏡・天叢雲の剣の三種の神器を授けて言いました 「豊葦原の瑞穂の国が私の子孫が君主となる場所だ 私の孫よ行きなさい。 そして皇位が盛立つように、天地とともに永遠に続くようにしなさい。(天壌無窮)」
こうして、瓊瓊杵尊は日向の高千穂の峰に降りました。 ここで、 (天壌無窮)の皇室の運命が決まり、天照大神の御子孫が、日本のただ一人の君主として臣民を統治されたのです。 天に二つの太陽が無いように、我が国は始まって以来「君臣の分」が決まっていて、未だ臣が天皇になったことも無く 君は君、臣は臣の大義名分が決まって、一糸乱れずに 上下が親しい仲となり、君は民を赤子(せきし)のように愛情をもって慈しみ、臣は身命を捧げて君に仕えます。 もちろん、外国人に皇位や国土を奪われたことはありません。
このように日本帝国の国の基本ができているのです。

②神武天皇の大事業
初代神武天皇は、天照大神の御心を継承して、皇室の権威を高めました。 臣下を連れて、高千穂を出発して船で浪速に上陸し、大和・河内の土豪を制圧し、都を大和の畝傍山の東南、橿原に定めて辛酉(しんゆう)の年に帝位につきました。 これが、我が国の皇紀元年です 現在(1914年)は皇紀2574年ですし、天皇は122代目です。 神武天皇以前を神代と呼びますので、歴史の長さがわかります。

③歴代の天皇は皇祖皇宗の偉業に積み重ねてゆく
歴代の天皇は即位して国民を統治するときでも、建国の由来、皇祖皇宗のおかげと教訓を受け継いで、ますます皇国の基礎が隆盛し国力が発展してきています。
第10代崇神天皇が四道将軍を遣わせて、周辺を統治しました。
第12代景行天皇は熊襲・蝦夷を討って、所領を拡大しました。
神功皇后は、三韓を征伐して、日本の威力を海外まで広げました。
第15代応神天皇は三韓にまで日本が知られて三韓から日本への訪問者が来ました。
これら、歴代の優れた天皇たちは皇祖皇宗の教えを守り皇室の尊厳と皇室の統治拡大を進めました。
特に明治天皇は知・仁・勇に秀れていらっしゃるので、武家政治の700年間に衰退した皇室の権威を回復されました。 内政と外交ともに比類のない隆盛を達成されて、昔の皇祖皇宗の建国の意図にお答えになりました。

5.「德ヲ樹ツルコト深厚ナリ」
①樹ツルの意味 樹という字は我が国の皇室の特色を表します。 「樹ツ」は植えることです。
我が国のご先祖は樹木を植え付けるように、人々に徳を植え付けました。これは、外国の建国者や王と我が国の天皇の大きく違うところです。
外国の王は強権の威力で建国して人々を統治します。 王に権力があるうちは人々は従いますが、他にこれ以上の権威のものが現れると、弱肉強食の法則で取って代られます。 外国の君臣の関係は畏服(恐れて敬う)の関係です。 我が日本の天皇は、人々に対して、権力ではなく「仁愛」を心に深く植え込まれるのです。 君臣の関係も、確固として区別されていますので、人々は天皇に喜んで従うのです。

②天照大神の仁政と三種の神器の徳
天照大神の徳は歴史書でしかわからないが、皇室の模範をお示しになり、君主としての徳をお示しになっています。 高天原においでになるときに、国民の衣食を心配されて米を植え て食を、養蚕を奨励して衣服を与えました。 人々は慈愛の政治に感謝して、天照大神を慕いました。
弟の素戔嗚尊が乱暴者で天照大神が天岩戸にお隠れになると神々は寂しくなって、皆で相談して岩戸から出ていただきました。
天孫降臨では玉で仁を、剣で勇を、鏡で知の三徳をお示しになった。 歴代の天皇はそれを体現されました。

③神武天皇の大きな度量と至上の孝行
神武天皇は、勇・仁・知で、日本国を創設しました。 東征は夕を現し、武を尊び、仁愛で政治を行い、全土を皇室の領地としました。 敵であっても、降伏して従うものには度量広く受け入れました。 慈しみの心も強く、穀物や麻を東国で栽培させ、孝道に尽くして建国の基礎を鳥見山(とみやま)に祭場を設けて皇祖天神をお祭りしました。

④歴代天皇これに則り給う
第10代 崇神天皇 疫病が流行って死者が急増して、八百万の神をお祭りした それで、ようやく疫病も収まり、天下が落ち着いて豊作になった。 天皇は農業を国の基礎として、池や水路の開発で水田の灌漑をして、四道将軍に周辺を征定させました。 人々は王のお陰が大きかったことから、天皇の徳を讃えました。
第12代 景行天皇 大勇断で熊襲・蝦夷を征定しました。
第15代応神天皇 文教を奨励して、人々に知識と道徳を学ばせました。
第60代醍醐天皇 寒さに震える貧民に、ご自分の着衣を与えられました。
歴代の天皇は、人々の父母の役割をされました

第16代仁徳天皇 四年二月、高台から見て炊煙が上がらないのを見て、三月には今後三年税金を無しにして、しかも天皇自ら倹約し宮殿の垣根が壊れても修繕せず、雨風がもれても気にせずに生活されました。 三年後、高台から見て炊煙がたくさん立ち登るのをみてお慶びになって皇后に言いました「私はすでに豊かになった」
皇后が「宮殿が壊れて雨や露の曝されていますが」と言いますと 「天皇の基盤は人々です。人々が豊かになるのは私が豊かになることです」と答えました。百姓たちが宮殿を修理してくれと貢物を持ってきても受け取りませんでした。
それから三年後、初めて労役を命じて宮殿を造営させました。 人々は老人や子供まで連れてきて、一日中建築して宮殿はすぐに出来上がりました。
これが、我が国の天皇が人々の幸福をご自身の幸福とされた仁のお心の表れた事例です。

明治天皇(1852-1912)も知・仁・勇を兼備された方です。 その人々を思う気持ち、慈愛に満ちた政治は仁徳天皇と同じです。
お歌があります。
「罪あれば 我を罪せよ 天つ神 民は我が身の 生みし子なれば」
「照につけ 曇につけて おもふかな わが民くさの うへはいかにと」
常に人々の生活を心配されていたのは恐れ多いことです。 我が国が明治の時代に前代未聞の発展を遂げたのは、偶然ではないのです。

人生100年大人の学び

杉浦帝王学の「教育勅語」は「倫理」と内容が補足関係に間あるので、とてもわかりやすく読める。古来からの日本人が「君臣固定」法で国を「大家族制度」として扱っていたことが見えてくる。戦う敵でも、降伏すれば利用するという発想も人を大切にする考え方である。現代でも使える思考体系、国家経営体系である。

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