【重光葵 外交回想録】中公文庫 2011年刊  1911年ドイツ着任から1941年イギリス大使退任までの話がまとまっている

目次を眺めるだけで激動の時代とわかる

明治の子育て

1887年に大分県に生まれる。 父親は漢学者であったが、家は貧しかった。母親が子供の教育(徳育)に熱心であった。 五高、東大独法を出て文官高等試験合格し、1911年外交官補としてドイツに着任。

日本の大変化の中心を生きた人 重光葵

本書では、第一次世界大戦直前から、第二次世界大戦開始直前までの30年間、外交官として数々の折衝や情報収集を行ってきた姿が描かれている。1932年には上海の天長節祝賀会場で、朝鮮人から爆弾を投げられ、死線を彷徨い右脚を失う。

明治の日本人の気概を感じる

明治の日本人の、国を思う気概と働きが随所に現れている。
また、戦後も悪名高い 松岡洋右の「わがまま」ぶりや、田中隆吉の「無法活動」などの記載も見られる。 重光氏は田中隆吉に暗殺されそうになったという。

人を通じたネットワーク作り

話の中で特に注意を引くのは、外交官たちが現地で収集する情報を時の軍部を中心とした内閣になるにつれて、聞き入れられなくなること。
重光氏は、現地で個人レッスンしてもらう語学の先生を通じて、現地ネットワークを広げていることの2点である。

ミズーリ号での降伏文書の署名

私が知っている重光葵は、1945年ミズーリ号上でのポツダム宣言受諾署名映像である。 当時は東京湾(ペリーの停泊した場所)で署名された。
現在ミズーリ号はハワイの真珠湾に係留されている。

戦艦ミズーリ号 @真珠湾

戦艦ミズーリ号上での署名映像

人生100年大人の学び

学校時代に習ったことを超えるのが大人の学びである。
私が一通り読んだつもりの太平洋戦争の背景も本によって食い違いが出てきたり、全く新しい事実が出てきたりする。その意味で、現地の情報を丹念に拾ってゆくことが重要だと考える。重光葵氏のような外交の中心人物の記録を読み取ることは重要である。

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