【「岩宿」の発見】相沢忠洋著 1969年刊 電子版2000年刊 ひたすら古代人の団欒を夢見た相沢少年は、岩宿に従来は存在しないと思われたローム層に古代縄文人の生活の痕跡(土器と磨製石器)を発見し、日本の歴史の掘り下げを行った

大東亜戦争、両親の離婚など、相沢さんの子供時代から、転々とした生活から始まる。最初は板橋区での小豆沢遺跡など、私の故郷も研究対象だった。
思い出せば、私も小学生の時、志村の崖で「貝殻の化石」を見つけ、当時、国立科學博物館の尾崎博先生に、断崖を案内していろいろ教えていただいたこともあった。

古代人の「家族の団欒」解明がライフワーク

相沢さんは、従来の学説「関東ローム層の生成時代には日本には人間が生活していなかった」を、磨製石器と縄文土器の存在で見事に否定し、日本には今から3万年以上前から、集団で生活していた人々がいたことを証明した。

関東地方に関東ローム層が堆積した上部ロームの時代は、一万年前から三、四万年前といわれる。そのころに人類がいたかどうかを知るてがかりはまったくといっていいくらい、何もなかった。地質学者たちは、そのころは、火山活動が活発に起こり、毎日毎日地上に火山灰が降りつもり、この地方に、人類はいうまでもなく動物も住むことができない状態であったにちがいないと考えていた。東京地方などで厚さ十メートルを越す関東ローム層は、赤土とよばれ、日本の第四紀洪積世の長い間の謎を秘めた地層であった。  その厚い層のなかに何万年か眠りつづけ、残されてきた祖先の体臭──そして日本における始原文化研究のいとぐちが、笠懸村の丘陵地帯の赤土のなかから発見された石器時代文化によって、ほぐれはじめたのだった。  それは、夢を求める執念とあくなき追究と、学究グループの決断によってもたらされた。

〈岩宿文化誕生〉 岩宿遺跡は昭和二十四年九月十一日から十三日にかけて、三日間にわたる小発掘を予備調査とし、この成果を杉原先生は九月二十日に新聞発表する、といいおいて帰京された。  私はこの発表を心待ちにした。一日千秋の思いとは、こういうときの思いではないかとも思った。  待ちわびた二十日の夜明け、私は飛び起きて桐生駅へ走った。新聞売りのおばあさんが、売り台の用意をして朝刊を並べはじめるのももどかしく、朝日、読売、毎日とインキのにおいのする新聞をひろげて活字を追った。  あった、あった! 「旧石器時代の遺物──桐生市近郊から発掘──」  という見出しで、杉原先生があの握槌の石器を手にしている写真を掲載しているのもあれば、岩宿の位置を示す地図を載せているのもあり、それぞれに大きくあつかっているのだった。

相沢さんは、自分の夢をひたすら追い求めた人。
家庭には恵まれなかったりしているが、今までの定説を覆す「歴史的大発見者」

文中にも述べられているが、「人からの裏切り」東大を中心とした「既得権益者との戦い」なども経験している。
しかし、自分のライフワークを常に追いかけて大発見にたどり着いた。
古事記や日本書紀にまとめられた遥か昔の高度な石器の研磨技術、縄文土器の製造技術など、誇りの持てる文化が存在することにもっと自信を持つべきである。

人生100年大人の学び

相沢さんのお名前は有名であるが、「岩宿」の発見を読むまで、どんな業績の方かは存じ上げっなかった。私が生まれてすぐ頃に日本の歴史を大転換する発見をされていることがわかる。個人での業績なので学会からのいじめもあったようだが、我々が歴史を正しく見る力をつけて、真実を知り続ける勉強をするしか解決法はない。

相沢さんのWiki

相沢忠洋記念館ホームページ

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