【日本的革命の哲学】山本七平著 1982年刊 祥伝社 日本人を動かす原理・その1

ここでの「革命」は「象徴天皇を創出したのは誰か?」である。明治以降も日本の歴史の節目に顔を出す「象徴天皇」日本の日本たる所以を追求する。
北条泰時の「関東御成敗式目」(貞永式目)がその起点であるとの検証である。
すなわち、現体制の外に何らかの絶対者を置き、その絶対者の意思に基づいて現体制を打倒して新体制を樹立することを革命と定義している。P.40
「承久の乱」後、律令時代からの天皇制を廃し「新しい法律のもとに武家が政権を担当する」時代への変化であったから。

日本に影響を与えた、中国の皇帝にふさわしい「仁」「義」の道による支配者交代。天が決める=人望に依存。孟子の思想が中心。人の交代
一方、西欧の神との契約による「王」の存在。制度を含めた交代。(旧約聖書 申命記)時代には終末があり、新時代は新しい神との契約になる(新約)思想となる。P.53

「承久の乱」(1221年)=武士団が朝廷と正面衝突をして勝利を得た最初の戦争。しかも、勝利の後、後鳥羽、順徳、土御門の3人の上皇を配流し、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立した。明治維新以上の新時代を画した事件が「承久の乱」P.57

伊豆の豪族でしかない、北条義時:泰時親子による朝廷への戦が時代を変え、日本人の「天皇観」をその後600年余り形成させた。その背景は、孟子の思想が背景であった。すなわち、天下が乱れているのを、人民に変わり討つ。北条義時:泰時親子にとって、天は日本固有の「天照大神・正八幡宮」であった。P.64

後鳥羽天皇の即位は、3種の神器が揃わない異常事態であった。(安徳天皇が3種の神器を持って西に逃げたため)P.69 人々はその即位に驚く。始めがおかしい天皇は全うできないと人々が信じる。水戸学でも、北条義時:泰時親子の天皇反逆とはとらえず、後鳥羽天皇の政治責任としている。P.73
また「神皇正統記」の源親房も泰時を称賛している。(義時を逆者とする史書は少なからずあるが泰時の批判は皆無) P.77
ここに、日本人の支配者の「理想像」があると山本氏は更に追いかけてゆく。

後鳥羽院は1221年5月 義時追討の「院宣・宣旨」を下す。大江広元を大将に京都へと出撃する。(手兵わずか18騎)P.88
幕府軍は関東御家人を中心に軍勢を増し、京都へ快進撃した。これを見た後鳥羽院は翌6月に義時追討の「院宣・宣旨」を撤回する。しかし、京都は幕府軍になだれ込まれ破壊され尽くした。P.102
そして、義時の戦後処理となる。

後鳥羽、土御門、順徳の3上皇が配流となり、後堀河天皇が即位した。
戦後処理の間に、北条泰時は六波羅探題に駐在し、ある時栂ノ尾高山寺の明恵(みょうえ)上人と出会う。ここで「承久の乱」の戦後処理が大きく形を変えてゆく。P.113
明治以来の国定教科書は義時を「日本史上最大の極悪人」として扱った。(国学の歴史でそのような記述は一切ない)P.210

泰時は、明恵上人のもとに弟子入りしてしまう。そして明恵上人は、純粋な釈尊信奉者(キリスト教で言えば聖フランチェスコにあたる)であり、俗世から超越した「純粋」な仏教思想に裏打ちされていた。P.134
明恵上人は「汎神的感覚を持ち(フランチェスコのように)外との対話を設定できた、島すら対象となった」P.142
すなわち、天皇制でもなく、武家社会規範でもない「外の規範」を泰時が持ち込める状態になっていた。明恵上人と泰時の間に「自然的秩序」への絶対信頼が生まれたことでもある。P.162

体制の新しい構築(貞永式目の制定など)という意味では「西欧型革命」に見える泰時の改革であるが、内容は「自然的秩序」を取り込んだ形態になっている。P182
「自然的秩序」は明恵上人によれば「現世はあるべきようにあれば良い」という現世思考であり(当時の浄土宗の来世救済思想ではない)今が大切だと言っている。P.196
1332年「関東御成敗式目」公布、この歳に明恵上人は亡くなる。
新しい成文法、日本人はじめての経験でもある。合議制に基づく集団指導性の確立。P.230

「自然的秩序」は中国は天であったが、泰時はそこに「天皇」を据えた。これが「象徴天皇」の出現である。中華革命との融合の接点でもあるP.233
そして、泰時は「道理に従って生きる」=欲心を持たず民を救うことを優先する=最終的にこれが幕府権威の背景となった。P.252

「関東御成敗式目」は51か条の基本法と900条の追加法。制定の議論は活発に戦わされ、最終決定は多数決。改廃は頻繁に行われた。P.258
以後640年(明治憲法制定まで)、日本人の常識の基準となった。P.267

以降は、「関東御成敗式目」の現在の法律との比較論である。相続、女性の権利百姓逃散などの取扱、宗教敵規定は一切ない。刑罰は軽かったなどなどには、現在も参考になることが含まれる。


特筆すべきは、日本にも「奴隷制」があったということ。当時の武家社会は「下剋上」許容であったこと。(功績主義は自然とそうなる)明治政府が作り上げた「武士道」とは別の「世俗法」であった。P.436

「関東御成敗式目」の現代への影響は、功績が地位に転化するプロセスはダイナミックであるが、その地位を構成する社会的制度はスタティック(固定的・静的)なものにしたところである。P.449
裁判よりも和解を好むのもこれに由来する。1240年に泰時は亡くなるが、かれは次世代に引き継ぐべき「政治構造」を構築して没した。

明治政府以降からの情報で日本歴史を教えられてきた我々であるが、山本氏の視点からの歴史の再考は、今後の日本の置かれた立場を考えると重要である。

日本人を動かす原理・その2については、江戸時代の思想として、山本氏は「勤勉の哲学」を著している。これも読み込んでゆくことで難解の著「日本の歴史 上・下」を再解読したい。

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