【近現代史集中講座】黄文雄著 2010年刊 2015年電子版刊 日清戦争、北清事変、日露戦争、日中戦争、大東亜戦争、日米戦争の6つを、時代背景、同時代の西欧列強の動き、日本の地政学的状況を俯瞰しながら論ずる。日本人の戦後「自虐史観」からの脱却を強く促す書

現在の常識で歴史は語れない

黄文雄氏の指摘
1. それぞれの国の歴史を眺めること
中国・韓国の歴史を丁寧に読み解くことで、日本が両国に対して行ったことの評価ができる。
中国は19世紀まで「中華思想」「朝貢秩序」思想の国。自惚れすぎて近代化に大きな遅れをとった。そして国内は軍閥割拠体制が「現在まで」続いている。中央が支配しているように見えるが、実際動かすのは地方の閥単位である。

ソ連は、一貫して領土拡張主義の歴史である。共産主義革命後、民衆の解放という仮面の裏側でもやっていたことは同じ。

韓国は、自国での近代化改革がうまく進められず、日本統治によって国内体制が整えられた。自治能力に限界がある国。

しかし、これらの国は、プロパガンダの仕掛けがうまい。さらに、日本国内の「有識者」による「自虐史観」強化が続いている。

2.その時代の背景で歴史を見るべきこと
過去に奴隷制度があって、それを「悪いこと」と決め付けると時代が見えなくなる。植民地化も、同時代の各国の動きで見ることで、日本がやっていたことの再評価ができる。

3.事実を丁寧に拾い集めること
基本の基本である
南京大虐殺、田中上奏文はプロパガンダがはっきりしている。しかし、盧溝橋事件などは現在でも事実が確認できていない。
常に、新しい情報を確認する必要がある。
事実に基づき「近現代を作った」と言う視座に置くのが良い。

4. 結果を客観的に評価すること
日本は、満洲国、韓国、台湾に対しては、国内体制の構築(教育や軍事訓練を中心として行ってきている)を行っていた。
そして、現地に根付かせるべく活動した先人がいる。
義和団事件での日本の対応の素早さと的確さは、西欧の列強も唸らせたという。

5.胸を張れる日本のアジア諸国への貢献
アジアの国々の戦後の独立に対しての日本の貢献は、もっと評価されて良い。
現地に顕彰碑が残っている場合も多い
マレーシア独立、フィリピン独立、インドネシア独立
インドでは、昭和天皇の服喪は3日間だったという。(日本は2日間)

6.人々・文化への尊敬
物事をフェアに見るために大事なこと

私の気づき:米国の西方政策がWWIIへ

他国の植民地やネイティヴアメリカンの土地を買収し、あるいは侵略して併合しつつ、領土を拡大していったのである。1803年、フランスからルイジアナを購入。1819年、スペインからフロリダを購入。そして、1820年代に入り、いわゆる西部開拓時代が幕を開ける。  1836年、メキシコ領テキサスでアメリカ入植者が反乱を起こしてテキサス共和国を樹立した。1845年にはこれを併合。1846 年から48年にかけて、メキシコに戦争をしかけ、カリフォルニアに至るまでのメキシコ領を併合し、太平洋岸に達する。  さらに、1861年から65年の南北戦争を経て、67年にロシアからアラスカを購入した。69年、大陸横断鉄道が開通し、西部への移住人口が急増する。1890年、ネイティヴアメリカン征服が完了し、フロンティアの消滅が発表された。そして、太平洋岸に達したアメリカは、次に太平洋に目を向けたのである。

1840年のアヘン戦争開戦前、すでに中国に在住していたアメリカ商人は、本国政府にイギリス艦隊とともに中国に示威行為を取るように要求していた。イギリスが南京条約で清国での権益を確保すると、1844年アメリカも清国とマカオで望厦協定を結び、イギリスと同様の権利を獲得した。そのため、19世紀におけるアメリカの対清国貿易量は、イギリスに次ぐ第2位だった。

1854年、ペリーのアメリカ艦隊は、日本に対して軍事力の優位を見せつけながら開国を迫り、日米和親条約を締結して江戸幕府の鎖国体制を崩壊させた。この条約は、下田、箱館(函館)の二港をアメリカ船寄港地として開港し、物資の補給を認めることと、下田に米国領事館を常駐させることを規定したものである。  ペリー艦隊による砲艦外交の目的は、日本を補給地としたアジアへの太平洋航路を確立することだった。日本に次ぐ第二の補給地としては琉球が挙げられ、占領も視野に入れた調査を行った。

列強の日本進出

 種子島の鉄砲はポルトガルから伝来したが、鎖国前の江戸幕府はスペイン、オランダと台湾領有を争った。スペインは無敵艦隊が壊滅してから制海権をイギリスに奪われたことで没落していった。オランダは、長崎を拠点に日本貿易を独占していたことから、日本の開国は望んでいなかった。  18世紀末から、イギリス艦隊の来航によってしきりに武力恫喝を帯びた通商要求を受けていたロシアは、1804年、クルーゼンシュテルン艦長の軍艦ナジェジダ号を長崎に向かわせ、使節レザノフを派遣した。江戸幕府はこれに即刻退去通告を出したが、あっさり引き下がるわけもなく、ロシアは北海道探査を始めたのだった。

1802年、イギリスはイギリス商船フレデリック号を長崎に寄航させた。このとき、長崎奉行所はオランダ人の進言に従って、それを海賊船とみなして入港を拒否したのである。その報復のために、1808年長崎に現れたのが軍艦フェートン号だ。フェートン号は、出島のオランダ人を人質に取り、市中を焼き払うと脅迫し掠奪を行った。長崎奉行だった松平康英は、イギリス人の軍艦に屈してイギリスの要求をのんだ。そして、その責任を取って切腹したのである。  
このように、外国船の来航が相次ぎ騒動が頻発したことで、日本国内の不安は高まった。そこで1825年、幕府は異国船打払令を出した。これは、オランダ船、唐船などを除く外国船が日本沿岸に出没した場合、それらすべてを打ち払うというもので、無二念打払令とも呼ばれている。  だが、アヘン戦争後の一八四二年、イギリスによる日本襲来の情報がもたらされると、幕府は戦争回避のために慌てて異国船打払令を撤回し、異国船には食糧や薪水を与え速やかに帰帆させるという薪水給与令を出したのだった。

米国はこの後、ペリーの黒船で開国を迫る。
太平洋方面への進出が、最終的な「太平洋戦争」につながる。

足で探索した福島安正

ベルリンからウラジオストック 1892年
トルコからインドまで大陸横断 1894年
台湾探索など、現場情報を集めた。

後方撹乱 明石元二郎

ソ連の国内分裂を図るために、欧州からソ連の革命軍に資金提供
後に台湾総督となり、台湾で没す

黄文雄氏のポイント

戦後日本がとった過剰な反省と謝罪の演出はただ中国や韓国から押し付けられた「正しい歴史認識」への同調に過ぎない。しかしむしろそれは歴史への冒涜犯罪行為だ。歴史への省察が必要である。
日本の近年現代の戦争を否定や肯定する事はあまり意味がない。
歴史の貢献論を解くことに多くの関心を持っている。

人生100年大人の学びで、やっと「自虐史観」からの脱却にたどり着いた。
日本人の真面目すぎる潔癖性による「自虐史観」はかねがねもったいないと思っていた。日本人のいいところ「覚悟を決める」「相手を思いやる」「みんなのため」を心がける点。COVID-19以降の世界はこのいいところの出番である。

YouTube「Emperor」

マッカーサーの天皇の扱いを描く「Emperor」 2013年制作がアップされています。

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