【会津藩の心意気】大山捨松 岩倉使節団と共に渡米し、米国で学び、優秀な成績で卒業し、大山巌の後妻となる。看護婦学校、女子学習院を創立

ブログ【ある明治人の記録】会津人柴五郎の遺書で会津人を取り上げた。
調べてゆくと、会津出身者は教育に大きな貢献をしている。

捨松の名の由来(咲子だった)

岩倉使節団一行と米国まで同行 会津から5名の女子が10年の留学
米国留学 佐幕派の娘たち 薩長を見返す 吉益亮子(14歳) 山川捨松(咲子)11歳 永井繁子 10歳 津田梅子 6歳 上田悌子 16歳
すごいですね。

奇しくも捨吉は巌の後を追うように、1919年のスペイン風邪で亡くなった。享年59歳

人生100年大人の学びで考える

教育は人を裏切らないと信じたい。会津藩から志を持った人材が輩出されるのは会津藩の教育内容とシステムが良かったせいであろう。杉浦重剛を東宮御学問所の倫理担当に推挙したのは、兄の山川健次郎東大総長、である。ここでも会津つながりが見えた。さらに研究を深めて、志の根元を明らかにしてゆきたい。

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