【帝王学「倫理」22「清廉」】杉浦重剛著 「倫理」より[YouTube]日頃から身の回りを清く保つことで 臣下、臣民の心を掴み、国が豊かになり 人々が平和に暮らせる そのためには一番上の人が清廉な心で 政治を行うことが大事だと言うお話しです

清廉とは心を清くして物欲から遠ざかり 心身をきれいにすることである。 我が国の人は昔から物事の汚れを大変嫌って 汚(けが)れたものにはお祓いをする習慣がある。 宮中では毎年六月と十二月に大祓の儀式をする。 これは官吏以下普通の人までの罪穢れをお祓いする 儀式で、本は伊弉諾尊(いざなぎのみこと) の禊に起因しているという。
ただいまは六月ですので大祓の時期ですので 清廉の心についてお話しするのも良いでしょう

昔 伊弉諾尊は黄泉の国から帰ってきて言いました 「私は汚れた国に行ってきた 汚れを全て洗い流したい」 と福岡県の小戸橘之檍原(おとのたちばなのあおきはら)で 体を洗った。これは身を清潔にし、心も洗い清められた
素戔嗚尊は高天原で乱暴を働いたことがある。 出雲国に出かけて八岐大蛇を切り 尾を切り裂くと神剣が出てきた剣から 雲のようなものが出ているので叢雲(むらくも)剣と呼んだ。 これをすぐに天照大神に奉献した。 
これが草薙剣である。 尊の誠忠の心と、清廉な気持ちの表れである

十六代仁徳天皇は応神天皇の第四子で 幼名を大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と言います。 応神天皇は末っ子の稚郎子(わかいらつこ)を大層可愛がり とうとう皇太子にしました。
応神天皇がお亡くなりになって稚郎子は位を大鷦鷯尊に譲って 「君主は年長で賢くなければいけない 尊の仁恵は天下に有名だし私より年長です 天皇を継いでください」 
尊は驚いて 「先の天皇がお決めになったのです。理由もなく私は継げません」 三年空位が続き稚郎子は自殺しました。 大鷦鷯尊は慟哭して皇位を継ぎました 。このような相互の謙遜は身を清く保つお心から出ています

仁徳天皇が御即位になってからは 宮殿、衣服、いろいろな調度は質素に徹しました 。後三条天皇、明治天皇も質素でした。
倹約と質素の徳を養って、同時に身を清廉にして過ごす 大御心なのです。

臣下についてのいくつかお話しします。 紀夏井(きのなつい)は身長190センチで 文徳天皇から清和天皇の代まで仕えた人です。
文徳天皇が即位されて召抱えられました 衣服がみすぼらしく、皆が笑いました。天皇は 「皆が知らない駿馬で、生活に追われているからだ」 と言い、小内記に任命しました。 美濃の所領を頂いても異母兄に譲ります 従五位でも清廉潔白で物欲がなく、赤貧で家もありません。 天皇は憐んで家を与えました。
それからどんどん出世して内外の政務をこなし 素晴らしい成果で天皇に可愛がられました。
文徳天皇がお亡くなりになった後は 讃岐の守になり実績も大変立派でした。 任期が終わり帰ろうとした時に、百姓が引き留めを 嘆願して二年延長して留まりました。 人々が豊かになり倉庫の貯蔵も十分になって 讃岐を去ろうとしたとき 農民からのお礼がたくさん集まったが 夏井は受け取らなかった。
京都に戻ると、たくさんの米や肉や趣味のものなどが たくさん送られてきたが 筆と墨だけ受け取って後は返送した。 清廉で領民を導き広く浸透した

藤原保則は生まれつき清廉で清潔であった。 備中、讃岐、備前などの領主となり徳が行き渡りました 部下で悪事をする人間が出ると摘発せずに語って
「あなたは最初仕官した時には清く正しく潔白で 栄誉を得ようと思っただろう。しかし親や妻子を養うことで 間違ったことをして悪事をしてしまった 貧乏がいい人をダメにする原因なのだ。 私には少しの収入があるのであなたにあげる。 これからは宮廷のものを着服してはいけない」
ここで宮廷の臣下たちは保則を敬愛し父母と名付けた。

あるとき、広島の盗賊が備後の絹織物を盗んで 備前の宿に宿泊した。 宿の主人に「この領主はどんな方ですか」と聞くと 「人々を仁義で治めますので、皆清廉で潔白です。 その思いが神に通じているので、領内で悪事を働くと 吉備津彦神が、たちどころに罰を与えるのです」 盗賊はこれを聞いて一晩中眠れなかった。 夜明けを待って、庁舎にでかけ平謝りに自首しました。
保則は盗賊に言いました 「お前は善人になろうとしているから悪人ではない」 と盗んだ絹を備後に送り返すよう言った。 保則の部下が「彼は盗賊ですから、多分備後には 届かないでしょう」といいました。 保則は「彼はすでに心を改めて誠実になっている 心変わりはしないよ」と言いました。 やはりその通り、盗賊は絹を備後に届けました。
人を教化するのにこのようにしていました。 保則はもともと清廉潔白で慈愛の精神にあふれていたので 臣下、領民は尊敬し親しみを感じていました。
これで、徳の浸透が行われたわけです。

武家の時代では、北条泰時も清廉で知られています。 泰時がはじめて執権になった時、政子は泰時に命じて 義時の領地を部下たちに分配させました。 泰時は部下たちの分を多く自分は非常に少なかった。 政子は、泰時にその理由を聞きました。泰時は 「私は執権という職位があります。それ以上求めません 部下を大切にしてゆきたいのです」 政子はその清廉さに打たれたそうです。

北条時頼、時宗も清廉で政治を行いました。 それだけでなく、補佐した青砥藤綱も清廉と倹約と 剛直(真っ直ぐな強さ)を持っていました。 領地は数十持って、財産もありましたが日常生活は 衣食は粗末で倹約を守りました。 その反面、人に布施をすることが好きで 給料が入ると、貧しい人々に分けていました。

徳川氏の初めの頃に家康が奨励したこと、それは 三河武士の誇りとした武士道精神は 身は清廉で君主に仕えることは忠誠であることでした。 元禄の赤穂義士の場合も、忠は当然としても 高い地位や富でなく清廉だったので美名を残したのです。 最近では、西郷隆盛、大久保利通、乃木将軍のように 死後、家に財産がなかったことを見れば 日頃から清廉に生活していたことがわかります。

外国の例を挙げます。
伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)が一番神聖な 清廉さを持っていました。 この兄弟は、孤竹王(こちく)の子供で 孤竹王が亡くなる直前、王位を叔斉に指名しましたが 孤竹王の死後、叔斉は伯夷に譲りますが 伯夷も父の命令だからと受ず 兄弟は流れて周の領内に入りました。
周の武王はすでに挙兵し(太公望を軍師として) 紂王を討ち取ろうとしていました。 伯夷・叔斉は武王に主君を撃つのを止めたが聞き入れられず 兄弟は周のものを食べずに山で餓死した。

漢の高祖の三傑の臣下である張良は功績の分配で 韓信、季布、彭越らが王になったが、領地は辞退して 地位だけもらい、自然の中で家の中に閉じこもりました。 世間からは離れて寿命を全うしました 張良の智恵は素晴らしいことは言うまでもありませんが その心が清廉でなければこのような生き方はできません。 劉玄徳の臣下、諸葛孔明は言いました 「成都には桑や田圃があり、子供たちが食べてゆけます。 私は、外で仕事をしているので、家具は不要ですし 着物は官からいただいています 生きる上では広い場所は要りません。 私が死んだとしても、余分の着物や家具を蓄えていない ので、君子に背くこともありません」 実際、死後その言葉の通りであることがわかりました。 清廉で自分を律して、君子に忠誠を尽くした姿があります。

西洋ではワシントンが清廉の君子です。 独立戦争で七年間苦戦して、勝利して 選挙で大統領に選ばれました。 その間、誠心誠意国のために尽くし 自分のことはやりませんでした。 大統領の任期が終わると、名声や財産など すっぱり捨ててヴァノン山に隠居して 晩年は農作業をして過ごしたそうです。

他にも例はたくさんあるのですが、 人が物欲に振り回されると心が濁って、鏡が曇ったようになり 公平な態度が保てなくなります。 その失われた態度では良い政治はできないのです 社会の上に立つ人は川の上流の水源です 水源が濁ったら下流はきれいにはなりせん。 世の中が悪くなるのは水源が汚いことが多いのです。 ですから、孔子も 伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい) を古代の賢人としているのです。

最後にご注意申し上げることは 自分を清く保とうとする時に 偏狭になってしまう恐れがあります。 昔、後漢の班超(はんちょう)が任尚(にんしょう)に 「水が透き通ると大魚はいなくなる」 と言ったのがそのことです このことは、以前お話しした「大量」(度量の広いこと) で補うことができるのです。

人生100年大人の学び

物に拘らない簡素な生活を実行していると、周囲の人々にそれが伝搬してゆく姿が描かれている。全ての特性は、上に立つ人から実行することが大切だと言うことが繰り返し述べられている。これは、現代では大きな課題で、富の大部分が上にいる人々に占有されている。これからの社会のあり方を考察する手がかりがここに見られる

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