【帝王学「倫理」26「赤穂義士」】杉浦重剛著 「倫理」より[YouTube]赤穂義士が、浅野内匠頭の仇討ちを 見事に果たした、その背景には、山鹿素行の 赤穂藩での二十年以上の教育がありました 大義のために一身を捧げるという君臣の 教えがありました 日本の心の原点を感じます

今から二百十数年前、東山天皇の元禄十五年 五代将軍綱吉公の十二月十四日、播州赤穂の城主 浅野長矩の遺臣四十七人、吉良義央(よしなか)を 討ち取って、主君のために仇(あだ)を取りました。 これが赤穂義士です。
徳川時代の太陰暦と現在の太陽暦は違いますが 今日は十二月十三日、義士の昔を振り返って 君臣に関することをお話しします。

四十七士が、心を一つにして力を合わせ 正義の行動を起こした協同行動の実例です。 赤穂の浅野家は安芸の浅野家から出ています。
浅野長政に、長男幸長、次男長晟(ながあき) 三男長重がいました。
長重は常陸国笠間で五万三千石でした その子の内匠頭長直の時の、国を移されて 播州赤穂を治めることになりました。 これが、長矩の祖父です。
長直は播州の新領地に移り、赤穂城を新築して 防備を固め、荒地を開墾し、田を増やして 産業振興を図り、実績が顕著でした。
しかも、著名な国学者山鹿素行を賓客として お招きしたのは特筆すべきことです。

山鹿素行は子供の頃、林羅山の一門に入り 十一歳で書見台を用いて経書・史書を講義しました。 十八歳から小畑景憲、北条氏長について兵法を学びました。 五年必死で学んで、全て習得しました。
このように、素行はまだ三十歳にもならずに評判が高かった 内匠頭長直は、昔、素行の一門に通ったことがあるので 承応元年に赤穂に迎えて、藩の教育をお願いした。
それで、素行は三十一歳から三十九歳までの九年間 赤穂で兵法と経書を教えました。
萬治三年に江戸に戻りました。
素行は江戸に戻ってからも、名声は高く 門下の弟子は三千人を超えました。
素行の学問は、儒学に基づいていますが これを、上手に日本化して、 我が国の精神が尊く厳かなことを説明し 日本国民の實践道徳に結び付けています。
その学問の要旨は「中朝事實」で知ることができます。
乃木将軍の家は代々山鹿流兵法を伝えてきています。 むかし、私費で「中朝事實」二巻を出版しました。
将軍も素行の学問で精神を鍛えられたことを ご承知ください

当時の学問は、大体朱子派の儒学が中心でした。 素行は「聖教要録」を出版したところ、幕府の方針に 触れてしまい、寛文六年江戸から追放されました。
赤穂藩主の浅野長直はその機会に、素行を再び播州に 迎えて、もてなしました。 素行は播州に十年ほど滞在し、経書と兵学を教えて 赤穂藩の士気を奮い立たせました。
長直は賢い君主で、素行は知力・勇気に優れていました 二人が、意気投合したのがわかります。
素行は江戸から許しが出て、赤穂を去る時に 長直に語りました。
「殿様には、素行が頑固で愚かな行動が捨てきれず 追放されたところ、国を思う人間として処遇いただき 恩返しができたとは思いません その、ほんの僅かでもお返ししたいと思って 家臣の方々の教育に力を入れました 将来、万一の事態が起こった時には、それが 思い当たることがあるかもしれません」
その後、四十七士がこの藩から出たのは そのような関連があるのです。

寛文十二年、長直が死んで、長男長友が継いだが わずか二年で早世し、長矩が九歳で跡を継いだ。 長矩は性格は真っ直ぐで強かったが、臣下を大事にして 武道を好み、文学や書画の趣味もありました。
いつも 「思えども 人の業には 限りあり 力を添えよ 天地の神」 という古歌を愛唱して、神を敬う人だったようです。
以上の事実から、長直の善政、素行の教育 長矩の臣下を大事にしたことが四十七士が生まれた 原因で、言い換えると蒔いた種が成長して 美しい花を開かせたと言うわけです。

元禄十四年二月、東山天皇の勅使として 柳原権大納言資廉(すけかど) 高野中納言保春(やすはる) 霊言上皇(れいげん)のお使いとして 清閑寺権中納言煕定(ひろさだ) が幕府に下向されました。
幕府側は、浅野長矩と伊達宗春に 勅使院史御饗応掛(ごきょうおうがかり) を命じました 格式の高い吉良義央(よしなか)は 御接伴掛(ごせつばんががり)に命ぜられました。
しかし、義央(よしなか)は元から欲張りで背が低い 長矩はきつい性格で素朴で素直なので お互い、打ち解けない関係でした。 長矩は憤って、殿中で義央に斬りつけ 二箇所を傷つけました。 当時、殿中で刀を抜くことは重罪でしたので 五代将軍綱吉は、長矩に切腹を命じ 所領没収を宣告しました。
長矩は、辞世の句を残して割腹しました
「風さそふ 花よりも なほ我はまた 春の名残を 如何とかせむ」 時に三十五歳、赤穂の義士が義央に復讐する原因です。

義士四十七人は皆、忠勇・義烈の人ですが それぞれの人を述べるのは不可能ですので 首領の大石内蔵助良雄とその子主税良金(ちからよしかね) ついてお話しします。
大石良雄の父は良昭(よしあき)で良雄は萬治二年赤穂に生まれる。 子供の頃から、文武の道を志して、山鹿素行について 儒学と兵学を学び、日常、論語を愛読していたという。
大人になってからは京都に出て、時の大儒学者伊藤仁斎の ところで儒学を学んだ 仁斎は、良雄を評して言った 「内蔵助は、普通の人ではない きっと大きなことをやり遂げるだろう」と
良雄はこのように、学問を身につける一面 武芸の錬磨も怠らなかった。
讃岐高松の剣客、奥村無我という東軍流の達人の 門下となり剣を学んで三十五歳で免許皆伝となった 良雄は文武両道で優れた技量を持っていたが 絵画を学んで、上手でもあった。
良雄は内匠頭長矩に仕え、城代家老として 政治を行った。 いつも粗末な服で倹約に勤め、謙遜して 利口らしく振る舞わなかったので、人はこれを 馬鹿にして「昼行灯」(ひるあんどん)というあだ名をつけた。 しかし、自然に人を従わせる度量があって 藩の武士たちは頼りにしていました。 良雄は、内面は鏡のような明解な知恵と 鉄石のような精神を持っていて それを外側に表すことなく、あくまでも 奥ゆかしい態度で、人に接したのです。

良雄には三男一女がいました。 主税(ちから)吉千代(きちちよ)大三郎 阿空(おあき)です。
主税は元禄十五年、十五歳で身長171センチ 文武両道を習得して、考え方や行動が 大人のようでした。
ある日、父の良雄が主税を呼んで、 次のようなことを聞きました 「人は生まれて十五年で大人である あなたも、大人だから理と義はわかるはずだ 人の道で義より重いものはなく 義は君臣関係が一番重い 父である私は、初めから死んで殿に 御恩をお返ししようと思っている あなたは、父と一緒に命を義のために 捧げる気持ちはありますか よく考えて返事をしなさい」
すると、主税ははっきりと言いました 「父上はなぜそんな情けないことをおっしゃるのですか 私は未熟ではありますが、日頃教えていただいたことから 大義のことは少しわかります 殿様に背き、父上を捨てて、不義になれません 父上と一緒に死んで、後世、国のために死んだ父子 と言われたいです」と
この父にしてこの子ありです。

大石父子は、首領として四十数名の義士をまとめ 元禄十五年十二月十四日、吉良義央(よしなか)を討って 主君の仇を取りました。
復讐前に良雄が歌を詠じました
『ながらへて 花を待つべき 身ならねど なほ惜しまるる 年の暮れかな」
この期間、堀部父子を始め、四十七士の 忍耐と苦労は筆舌に尽くしがたいが 何度くじけても立ち上がる精神で、忠義を果たしたのは 素晴らしく、大儒者の室鳩巣(むろきゅうそう)も 「義人録」を書いてこれを称賛して 今でも人々が思い出しています。
明治天皇が東京においでになった時、使者を遣わせて 義士の墓を弔わせ、丁寧なお言葉を残しました
大石良雄へ 「良雄らの、主従の義の精神は、仇討ちで死ぬこととなった 何世代にもわたって、他の人たちにを奮い立たせた 私は心から褒める、今東京に来たので使いを遣って お墓を弔い、金幣(きんぺい)を授ける」
明治元年戊辰十一月五日
四十七士は、これもまた栄誉となりました

人生100年大人の学び

3つ発見がありました。大義のために命を投げ出す。赤穂義士は昔から興味を持っていたけれども、国学の精神を山鹿素行から20年以上学んでいたということ。大石主税が十五歳で、義の本質を掴み、父と行動するという覚悟を持っていたこと。そして明治天皇が東京に移られてすぐに、泉岳寺に勅使を遣わせたこと。です。江戸の精神は素晴らしいものがあったと思います

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