【帝王学「倫理」第三十三講 「科學者」】杉浦重剛著 「倫理」より[YouTube]西欧の科学者たちの研究に対する熱心さと 理化学を応用する発明家たちの苦労と成果を例証して 理化学の分野は、急いで西欧から学ぶべきというお話 昭和天皇はのちに、理化学の研究も支援し 日本の研究レベルの基礎向上をはかり 現在のノーベル賞受賞につながる仕組みを築きました

「五條御誓文」の最後の第五条に 知識を世界に求め、天皇の国家統治の基礎を強化すること とあります。この意味は 外国の強みを取り入れて、日本の不足しているところを 補強するということです。
では、西洋の長所はといえば「理化学の進歩」です。 昔からの、我が国の忠孝に従った倫理道徳の教育は 西洋より、各段に進んでいます。
しかし、理化学の研究は大変遅れています ですから、理化学分野の遅れを取り戻すべきです。

西欧の学者の、科学の研究に対して努力する様子は 不屈の精神で、昼夜かまわず、名声を求めずに 学理を極めるという、崇高なものです。 これによって、科学が進歩し、実地応用で文明の利器が 生まれてきているわけです。

汽車、電信、電話などが理化学の応用です 我が国でも、理化学を奨励して外国に負けないように するべきです。
西欧で活躍した、科学者や発明家のお話をしましょう

サー・アイザック・ニュートン 英国最高の理学者
1642年ウールストルプ生
ケンブリッジのトリニティー・カレッジで 数学を学び、のちに微積分學を創設 1665年、疫病が流行しウールストルプに引きこもって 世間と接触を絶っていた時、農園に座って 林檎が地上に落ちるのを見て、それを考えを巡らせて 「引力の法則」を発見し、物理学の新分野を開拓した。

ある人が、ニュートンに聞きました 「どうしたら、こんな大発見ができるのですか」
ニュートンは答えました 「いつも、このことを考えていましたから」
常に、注意深く、あきらめずに、進んで学んで この大発見に到達してます。
後年、ローヤル・ソサエティの会員にもなり アン女王からナイトを賜りました。 生涯独身で、学問に生涯を捧げました 1727年ケンシントンで死去

ジョン・ダルトン 英国の化学者 カンバーランド生まれ
貧しい育ちであったが、12歳で先生になり 農業で生活し、後に先生を職業としました。 色盲の研究で有名になりました。

ジョンスという牧師の家に同居していたが、日常生活は 朝8時に起きて、実験室に点火してから朝食 朝食後、実験室に入り、昼食に出てきて軽く食べ また実験室。ティーのために5時ごろ出てきて また実験室に入り、夜9時頃まで実験する。 規則正しく、熱心に研究する態度を見習うべきです。
ダルトンの化学分野での「原子論」の発見は 物理学の「引力の法則」に匹敵します。 英国王は年金300ポンドを授与しました。 脊髄麻痺になりましたが、研究意欲は衰えず その後も、多数の論文を発表しました 1884年、78歳で亡くなりました。
ダルトンは終生 「私は才能ではなく、勤勉の積み重ねだ」 と言っていたそうです。

英国人ダーウイン(1809−1882)
エヂンバラ・ケンブリッジで学び、22歳から6年間 ビーグル号で世界を探検しました。 調査から帰って、病気になり、ダウンに籠もって 生物種族進化の研究を続けました。 35歳で「自然淘汰」を発見しましたが、50歳になって 「種の起源」を発表しました。 これを公開する時にこんな美談があります ウオーレスという学者が、ダーウインと同時に 同じ考えを発表しようとしていました。しかし、内容を見てウオーレスは、ダーウインに発表を譲り 「ダーウイ二ズム」という本まで書きました。

海王星の発見も科学の精密さの結果から もたらされた、不思議な話です。
まず、ケンブリッジ大学のアダムスが計算上 「海王星」の存在を予言しました(1845)。
フランスのレヴェリーも同じ意見を発表。
プロシャのガレルが実際に 「海王星」を観測しました(1846)

では、文明の利器の発明のお話をしましょう。
蒸気機関の発明者のジェイムス・ワット グリノックに1736年に生まれました。 子供の頃は、体が弱かったのですが、6歳で幾何学の問題を解いたそうです。
しかし、おばさんのムーアヘッドから叱られます 「お前ほどだらしない子供は見たことがない 毎日、ヤカンにふたやコップをかぶせて 水滴の数を数えたりしているばかり 時間を無駄にして、恥ずかしくないのですか」
この頃から、考えていることがあったのです。

大人になって、グラスゴーの大学に ニューコミンが作った蒸気機関の小さな模型があって この修理を頼まれました。 その時、熱の働き、蒸気の膨張・収縮の原理を研究して 30年間、コツコツと学んで蒸気機関を完成させました。

スマイルスの著書「自助論」では 「ワットは、日常勉強に励んで、幅広い知識を 実地に応用できた、数少ない人である」とあります。
ワットはロンドンとエディンバラの ローヤル・ソサエティ会員に推薦され 1819年ヒースフィールドで亡くなりました。

ワットの後、スティヴンソンが蒸気機関を大改良して 汽車に応用しました。
彼も、この発明に15年かかりました。
こうして、国の方向が大変化して 便利になって、民間の活用も進んだのです。 世の中は、大いに進歩しました。

それでは、種痘の発明者 ジェンナー(1749-1823)のお話をします。
当時、天然痘は恐ろしい病気で、死亡率が高いだけでなく 失明する率も高かったのです。 ジェンナーは牧師の子で、医者でした。 牛の天然痘の研究を始め 1776年頃種痘で予防できることを、発見しました。 これを、地方の医学会で発表したところ 聴衆が嘲笑って、彼を追い出しました。 しかし、それにも屈せずに完全な実験をして 1798年に公表し、人類社会を救いました。

このほか、アークライトの紡績機 マルコーニの無線機など、人類にとっての 便利な機器の発明は、キリがありません。 スマイルスは言いました 「新しいものを発明する人が、 懸命にやってくれたおかげで 人類は便利さや、快適さの幸福を手に入れた」 と。
西欧の科学の進歩が、応用によって、たくさんの 「文明の利器」を生み出したことが ご理解いただけると思います。
我が国では、忠孝一筋の道徳や忠勇・義烈の精神は 西欧に勝っておりますが、理化学の分野は 遅れをとっております。

我が国でも、関新助のような大数学者もいますし、大塩平八郎は、弟子に幾何学を教えていました。 このように数学理化学への取り組みがありましたが まだまだ欧米には遅れております。
西欧の強みを、我が国も学ぶべきです。
例えば、戦争を例に挙げますと 大砲、飛行機、軍艦その他最新の武器を十分用意して これを使いこなすのに、忠勇・義烈の精神が伴えば 完璧になります。
それであれば、世界に敵はいなくなります。
これが、五條御誓文の第五条の趣旨だと思います

人生100年大人の学び

科学のスタートから、イギリスの産業革命、そして応用技術の急速な進歩。列強に負けないように、日本の国力の基盤は、科学技術にありという、化学者らしい説明。昭和天皇は、それから理化学研究所や、学術振興会などを作って理化学を盛り立ててゆく。現在日本がノーベル賞を獲得している基盤はこの考えにある。

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