【帝王学「倫理」第三十五講 「徳川家光」】杉浦重剛著 「倫理」より[YouTube]三代目将軍、家光の話です 昭和天皇が明治維新から三代目の天皇 ということで、力の入った講義です 優秀なブレーンを使いこなし キリスト教追放、鎖国など 国益、庶民の立場で考え実行する 徳川幕府は、安泰な時代を築きます

徳川三代目の将軍が家光です。 二代将軍秀忠の二番目の子供です。 幼名は「竹千代」です。
秀忠は守役として、内藤忠重、 補佐に松平信綱と阿部忠秋を付けました。
元和元年には、酒井忠世、土井利勝、青山忠俊を 補導にしました、
その時秀忠は 「忠世」は第一補導で、慈仁の心を持ち、軽佻を戒めてくれ。
「利勝」は才智で臨機応変で対応してくれ。
「忠俊」は強くたくましいので、勇気を持たせて、 三人、打ち解けて、協力して養育を頼む と申し付けました。

家光は「忠世」を尊敬して、他の二人の意見も 積極的に取り入れました。
家光は徳川家十五代の将軍の中でも名君として 後世に伝えられています。
家康と秀忠が、酒井、土井、青山の三人を選んだのは 知・仁・勇の三徳を以て、家光を指導するためでした。
家康は臨終の間際に家光を呼んで 「お前は、天下を治める人間になる 天下を治めるには、慈しみの心が大事だ」 と言い遺しました。
家光は、この言葉を身に染みて実践しました。

家光が十三歳の時、城内で猿楽をやっていたときに 強い地震がありました。 見ていた人たちは、皆庭に降りましたが、秀忠は 落ち着いて、動かず、人々を見ておりました。
その時、家光は屏風の後ろにいましたが、青山忠俊が 抱き抱えて庭の奥まで走りました。 家光が「父君はどうされていますか」 忠俊は「今はわかりません」と答えると、家光は 「父君が降りていないのに、なぜ私を降ろしたのですか」 と言って、忠俊を手で叩きました。
これは、幼少の頃から孝行の道を実践していた例です

将軍職についてからも、熱心に父祖を敬慕しました。
みんなで談笑している時でも、家康の話になると 「ちょっと待ってくれ」と言って、袴を着けて座り直し 両手をついて、拝聴したといいます。
家光は元和九年七月に京都に出かけて「征夷大将軍」に 任命されます。京都から帰って大名たちに 「私の先祖が、天下統一の大事業を成し遂げた あなた方のおかげである。私は、座ったままで 天下統一をするが、先代とは格が違う話だ。 今後、皆さんが国に戻り、今後三年で政策を決めて 処遇を考えたい」と言った後 一人一人の大名と面談して、それぞれ刀を与えました。
諸大名は、その心の広さに敬服しました。 家光の、権威の重さと、勇断が非凡な例として 人々の間に広まっている話です。

徳川幕府は家康が創業し、秀忠が受け継ぎ 家光が大成しました。 家光は、人をよく知って、任せることも多かった。 井伊直孝、酒井忠世、土井利勝、松平信綱、酒井忠勝 板倉重宗、阿部忠秋らが、後世に徳川時代の名臣と 呼ばれるのは、皆が力を合わせて家光を盛り立てたのと 家光がこの人々を信任したことによります。
二三例を挙げます。
家光は、酒井忠世が厳しいのが不快で、大手前を 通った時に「あの家は誰の家だ」と聞いて 「酒井忠世の家です」と聞いて、顔をそむけるほどでした。 ある時、秀忠は家光に諭しました 「酒井忠世が気に入らないそうではないか。しかし あの方は、家康公の旧臣で国家の大小にも精通している その方が気に入らないのは、わがままです 国家を治めるのに、わがままは許されません」 家光は、ハッとして反省し、すぐに忠世を呼んで 「今日は秀忠公から御言葉があって、あなたが国家のため にいう言葉を、私が誤解していた。これからは思ったことを どんどん言って欲しい」と優遇されました。

家光は、若い頃、流行に乗って、衣服や髪型などに 気を遣い、鏡を並べて化粧したりしました。 青山忠俊がそれを見て、鏡を投げ捨てて言いました 「これが、国家を治める人のすることですか」 大声で諫めることも多かったのです。 家光が成長して、忠俊の諌言を嫌い 忠俊は蟄居(自宅待機)になりました。
ずっと後になって、忠俊の子、宗俊を呼び出して 子供の竹千代(のちの家綱)の守役に任命して 「お前の父親は厳しい人だった。私は若かったものだから 間違って、蟄居させてしまった。お前に竹千代を任せるが 父親が私に仕えると思って、尽くしてくれ」 宗俊は、感激して涙を流し退席すると家光は 呼び戻して言いました。 「帰る前にこのことを、父親の墓に報告しなさい」

家光は、堀田正盛に言いました 「あなた方は会うと、友人たちの良し悪しを話すだろう 最後は、敵を作ることにもなる。やむを得ないが 私の善し悪しを話題にしなさい 私は悪いことは直したいし、役に立つといい」 正盛は、感嘆して人々に語りました。
このように、人を上手に使い、すぐに間違いを修正する ことが学べます。 ですから、賞罰、裁判などは、国政の重要事項ということで これには慎重に注意を払っておりました。
ある時、家光は品川の奉行所で訴訟をお聴きになりました 裁決が終わり、家臣や奉行所の連中と食事、酒など を召し上がってから言いました 「裁判を全てやるというが、私はそうは思わない 賢いあなた方がやれば、庶民の気持ちの本当のところ はわからない。細かく追い詰めると、庶民は不要なことまで 裁判に持ち込む。裁判とするかしないか、状況や証拠で 事前に判断して、庶民の心を汲み取って、裁判してほしい」 家臣始め、皆感服して涙を流したそうです。
また、町奉行から、最近、政治を狂歌や落書きする奴がいるので 厳しく取り締まりたいと申し出がありました。 家光は平然として「良いではないか、落書きなどあれば 写しとって見せてくれ。庶民の意見を聞くことは 政治に反映できる」と言いました。 これらは、賢く、慎重で緻密な心構えがあったからです。

他には、永楽通宝を寛永通宝に換えたのは業績です。 キリスト教を厳禁して、天草の乱が起こり 天草の乱の後、鎖国しました 。これも、神州を外人から守るためのものでした。
かつて、甲斐荘正述(かいのしょうしょうじゅつ)が 長崎奉行の時に 「日本人が外国から入ってくるのは、私の間違いから しかし、外国人が一歩でも足を踏み入れたら私の 大失策である。気を引き締めて取り組みます」 これが、家光の精神であります。
家光はかつて言いました 「キリストの教えは西洋の教え。我が国の人が 信仰したら、損失になる。我が国の人が キリスト教から改宗するようにすべき」
慶安四年四月二十日  家光死去 享年四十八歳

二三逸話をお話しします。
林道春が韓の人に故事来歴を聞きました。 家光は「意味なし、政治と道徳を聞くこと」と言いました。 家光は幼少、林道春に習い、一を聞いて十を知る子でした 「私は国家を治めるために日夜心を尽くしているが 学問は不足しているので、子孫には学問をさせる」 子供の綱吉が学問が好きで、その遺訓に従いました。
寛永十四年八月、城の移設の式典で、重臣たちを集めて お祝いの祭典をしている時、建築担当奉行を呼んで 「今回の改築は華美なところがある、そこは壊せ これからは、家は華美であってはならぬ」と命じたので その場は凍りつきました。 家光は武芸を好んだのですが、とりわけ剣術に熱心で 柳生宗矩の免許皆伝になりました 狩猟を行って、槍や猟銃で、鳥や獣を仕留めたのも 度々行いました。

太政大臣は、何度も辞退して、寛永十一年に 上洛した時に、大名たちを集めて言いました。「私が、若いということで太政大臣を何度も辞退しているのは 謙遜を示しながら、国家を治めるためだ 皆さんも、その考え方を持ってください」 大名たちは感服して帰りました。

家光が参内した時の話です。 「代々将軍家が、参内した時、御威光が強くて 天皇の顔が見えないと言われている。 私はよく見ようと思ったが、天皇の前では御威光が強くて 尊敬の思いが出て、やはり、見ることができなかった。 天皇からお酒をいただくときは手が震えた」 家光が皇室を尊重して、自らを謙虚に抑えた態度が 見られます。

私が、思いますに「創業」はものすごく大変です。 しかし、「守成」も簡単ではありません。
徳川の天下は、三代目の家光という素晴らしく英明な 将軍が出たから十五代、二百六十年続いたというのが 後世の歴史家が皆認めていることです。
徳川実記には、これを褒め称えて 体制を継いで盛り立てたのは支那の歴史以上です、とあります。

「売り家と唐様で書く三代目」という諺があります その意味は、爺さんと父親が苦労して築き上げた 資産を、三代目が苦労を知らないために 新しいものや、軟弱なことに流されて 家を傾けて、破産する様子を言います。 これが、一番恐ろしいことです。

家光は、これとは違って、三代目でようやく 爺さんと父親が苦労したことを大事業として まとめ上げました 素晴らしいことです

人生100年大人の学び

「創業」と「守成」いずれが難き、というのは「貞観要政」の一つの大きなテーマである。昭和天皇が、守成されるための徳川家の事例の引用は、大変参考になる。鎖国、倹約、地位に固執しないなど、大成するための重要な要素の位置付けが、見えてくる。こうして、江戸時代を見直すと、日本人、やるではないかと思えてくる。

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