【帝王学「倫理」第三十七講 「大義名分」】杉浦重剛著 「倫理」より[YouTube]何をやるにも、理由が明確で、正しければ 人々は納得して付いてきます その時に、人々の役割が明確であれば 国は繁栄します 日本皇室は、萬世一系、日本は興隆します

春秋の時代、世の中が混乱して「孔子」は 魯の国の歴史をまとめて「春秋」という本を出しました。 内容は、善悪・邪正を明確にして名分を設定し 大義を掲げて、尊王の意思を實践することでした。

衛の桓公を殺して国を乗っ取った徳がない 「州」という王がいました。 桓公の忠臣に石錯(せきさく)と子供の厚がいました。 二人は、「州」に随行して陳に行きました。 石錯と厚は、「州」は桓公を殺したので 陳に「州」を殺してくれと頼みました。 陳は三人を捕らえて、殺しました。
石錯は、大義のために、国を滅ぼしてしまったのです。
君臣は国の存続が仕事です。
それを基準として、何をするか決めるのが 「大義名分」の由来です

衛の出公(しゅつこう)の時代には政治が乱れて 孔子は、地位を正し、役割を明確にすることを急いだ。
君は君、臣は臣、父は父、子は子という役割が明確ならば 国は治り、これができないと国は混乱するのです。 それだけ、地位と役割は重要です。 ですから、孔子の「春秋」では「地位と役割」について 厳しく書かれています。

晋国に「趙盾」(ちょうじゅん)という賢臣がいました。 王の「霊公」は徳のない人でした 何度も諫言するのですが、聞き入れられず 逆に殺されそうになります。 「趙盾」が、国境を超えて逃げようとするときに一族の 「趙穿」(ちょうせん)が「霊公」を殺しました。 「春秋」では「趙盾」が君主を殺したと書かれています。 正臣として国を守るのが「趙盾」の役目、君主が殺されたら 賊を討つのが役目、と。

孟子は、孔子が「春秋」を書いてからは、乱臣や賊たちは 行動を考えるようになった、と言いました。

「春秋」からしばらくして宋の名臣の司馬光が 「資治通鑑」の冒頭に、名分の重要性を書き 大儒学者の「朱熹」も「春秋」の書き方に習って 「通鑑綱目」を出しました。
我が国では、北畠親房が「神皇正統記」(じんのう)を書いて 南朝が正当であることを公表して 大義名分の所在=天皇家、を明確にしました。
徳川光圀が「大日本史」を編纂したのも同じ趣旨です。 進大日本史表(だいにほんしすすむるのひょう)にも 「春秋」と同じように 順逆・邪正を明確にして、大義名分をはっきりさせたのです。 大友皇子を歴代天皇に加え、神功皇后を省き 南朝を正統としたのは、特筆すべきことです。

我が国では、天照大神が、孫の瓊瓊杵尊に命じて 大八洲を統治させたので、君臣の分担は明確に 決まっていました。
これを、実証したのが大国主命です。 大国主命は、素戔嗚尊の子で、出雲国を統治していました。 さらに、越の国も支配していました。大変な苦労です。
高天原から建御雷神(たけのみかずちのかみ)が来られて あなたの国を譲るのは、いかがですか といわれて、潔く国を献上して、隠居しました。 これは、君臣の「大義」の実行例です。

奈良朝では、反逆僧の「道鏡」が、権勢をほしいままに していました。 天皇になろうとしましたが、和気清麻呂の一言で 「大義」が明確になって、皇室が守られました。 武家政治になって、「大義名分」が一時ふらつきましたが 後醍醐天皇が討幕の旗を挙げると 新田、楠、名和、児島らの勤王の諸士が 「大義」で立ち上がり、北条氏を倒して 一時、建武の中興がなされました。
足利十五代は「大義名分」が乱れた時代です。 天皇の権力が将軍に、将軍の権力が管領に 管領の権力は執事にと移り、歴史家はこれを 「下克上」と呼びました。

しかし、織田信長が台頭してくると、村井正勝が僧日乗に 命じて、皇居を修理し、米を都市に貸し付けて利息を 朝廷の経費に当てて、天皇への尊敬を表しました。
秀吉も、その志を継いで、宮殿を造営して、諸大名にも 皇室への敬意を誓わせました。 徳川時代は、幕府が政権を掌握したので、朝廷の力は 衰退していました。 徳川光圀は、「大日本史」を編纂して「尊王」の「大義」を 明らかにしました。 賀茂真淵、本居宣長は国学を研究して「国体」=国の中心存在 を明らかにして、「尊王」に「義」があることを主張しました。
当時の漢学者は、支那の学問に心酔していて 自分たちを「東夷」と卑下する人たちもいました 賀茂真淵は、そのような人々が「名分」=役割を 間違えているとして、排除しました。
山鹿素行は「中朝事実」で日本が世界の中心だと 主張したのです 宝暦、明和の頃は、竹内式部、山縣大貮(だいに)藤井右門が勤王論を唱えて、殺されました。 大貮の遺著「柳子新論」では巻頭に「正名」を論じて 名分を正すべきことが書かれています。 高山正之、蒲生秀実(ひでざね)も尊王を大義としました 浅見絅斎(けいさい)は「靖献遺言」で義気を賞賛し 頼山陽は「日本外史」で、楠、新田等、南朝の忠臣を 大いに称賛して「大義」があることを訴えました。 このほか、吉田松陰や頼三樹三郎、薩長の勤王の武士たち が徳川幕府を倒して、王政一新しました 。尊王攘夷の源流は「大義名分」にあったのです。

支那は革命が次々と起こり、大義名分の基準が 不明瞭ですが、大義を論じて名分を実行する点では 厳格です。
伯夷叔斉が、武王の馬を引き止めて諫言したのは その代表例です。
漢の高祖も、項羽を攻めて、挙兵して洛陽に来たときに 董公(とうこう)が 「無闇に出兵してはいけません、王は相手の悪いところを 明確にした上で、軍を率いるのです」 漢王は、弔いを命じ、諸侯にその戦いの理由を伝えました。 策略だけでなく「名を正し」て勢力を拡大できたのです。
諸葛孔明が、蜀の漢帝を助けて、大義で魏を破りました。
文天祥が正気歌で、昔の義を行った人を讃え 自ら、大義を守って屈しませんでした。 この人々の、精神も素晴らしいです。

我が国は、万世一系の皇室をいただく国で 大義もはっきりしています。 これを基本に、国民の大和精神を、奨励して 奮い立たせるべきです。
藤田東湖が文天祥の正気歌にならって、我が国の義人烈士をたたえた歌を作りました。
大義が正しければ人々の心は正しくなりますから 天皇家が盛り上がってゆくのは当然です。
「大義」を明らかに「名分」を正すことで 我が国の隆盛は確実です。

人生100年大人の学び

大義名分は、基本方針の確立と、活動主体の役割(認識と)分担だという組み合わせがわかった。萬世一系とは、大御心と大御宝が心を一つにして営々と築き上げられたものであることがわかった。日本精神の中心に「和」が来るのは当然だし、それがこれからの社会に必要な叡智であることも納得できる。

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