【渋沢栄一 下 論語編】鹿島茂著 2013年初刊 2019年電子版刊 「渋沢栄一」の民を中心として産業を興す思想背景と、具体的な事業立ち上げ そして70歳にして実業界から身を退き、新たに民間外交、教育事業への取り組みを描き出す 徳川慶喜公伝がライフワークとなった

下巻は新発見事項満載

下巻は「渋沢栄一」の民を中心として産業を興す思想背景と、その後の具体的な事業立ち上げ、そして70歳にして実業界から身を退き、新たに民間外交、教育事業への取り組みを描き出す。
そして、正妻以外にも多数抱えたと言われる周辺の女性、その子供たちへの道筋などを纏めている。論語の精神は「女性に関する言及がなかった」ことが渋沢氏の私生活を救ったとも纏められている。新発見事項も多く

今も残る明治の負の遺産「武士は食わねど・・

鹿島氏は、明治時代の武士は「清貧武士道倫理で民の経済感覚」を見下し、民は「民の経済を知らない武士の倫理」に絶望した。
渋沢栄一がその全生涯を通じて打倒しようと試みたのは、こうした武士の流れを汲む「官」の金銭蔑視と民業軽視、そして、その裏返したる「民」の没理念、没倫理であった

サン=シモン主義がキーワード

渋沢は父の倫理の教育と民の商の教育を受けて倫理と経済の両輪を回すことが大事であることを「実感」していた。そして、サン=シモン主義をフランスで知るに及び日本に商業教育の実地教育を持ち込んだ。明治8年(1875年)の「商法講習所」がそれである。1884年に東京商業学校に改称。翌年高等商業学校となり、後の一橋大学となる。

周囲の無理解にもめげず推進した結果である。その理念を渋沢は
「実業家には見識が必要である。舜も人なり吾も人なり、といふ考へがあつてこそ実業界は発達して行くのである。蹂躙られても軽蔑されても利益を得さへすれば可いといふ態度では、今後世界の檜舞台に立つて大いに競争して行くやうな事は出来るものでは無い」
商人となる人物ならばこそ、全人格的な教養、つまり江戸時代に武士が受けた「修身、斉家、治国、平天下」に相当するようなものが必要である。

「実業家も負けぬ気の強い、忍耐力も奮発力もあるやうでなければならぬ。正当の理由が無いのに、実業家だからと云つて他に一歩を譲るやうな心掛けでは困る。経済、理財の事は決して卑下す可き性質のものでない。一国の政治に就いても財政経済が其の根本であつて、且つ国民が財政経済に就いて理解する処が無ければ、その財政を整へる事すら出来なくなる。(中略)生産殖利の業に携はる者を蔑視するのは間違ひであるのみならず、寧ろ国民教育に就いては義利合一主義の下に最も此の教育に力を注がなければならぬ」

国家のためになる事業なら一人でも支える「公益主義」

人造肥料会社を高峰譲吉を社長として立ち上げる。
農民の理解を得るまで、配合の重要性を知るまで紆余曲折を経て8年がかりで会社を軌道に乗せる。
この辺りは、映画の「さくら、さくら」が当時の様子を描き出している。

その後も毎月1社を生み出し、人に任せられるところは人に任せて会社を経営させた。大倉喜八郎、安田善次郎、浅野総一郎など後の財閥をつくる人々を積極的に採用した。あくまでもその理念は「国家社会の利益」を考えて動いた。

「貧者の救済は社会全体の出費の節約」

合理精神からの慈善事業
雑誌『太陽』に載ったインタビューの中で、渋沢は、社会福祉の目的は、少年犯罪などの社会の害悪を未然に防止し、社会の負担を軽減することにあるとして、こう答えている。 「詰り養育院は博愛済衆の主義から出来たものではあるが、其の本来の使命は啻にそれ計りでは無く、社会の害悪を未発又は未然に防止するもので、社会の上から云ふと他を愛するのみならず、自らを愛する為めに是非ともやらねばならぬものである」(『青淵回顧録』)  この経済的合理主義が渋沢の社会福祉の真骨頂なのである。つまり、偽善と最も遠いところから慈善活動に入り、その中で最大限の工夫をして、効率的にこれを運営し、社会の負担を二重の意味で減らす。これが渋沢流の社会福祉への貢献の仕方である。そして、それは、渋沢が社会福祉に最初にかかわったときから一貫していたのである。東京に養育院の創設を図り、1889年に東京府に移管する。

500を超える事業の3つのジャンル

①資本主義化のインフラにかかわる企業──銀行、各種取引所・交換所(手形交換所、証券取引所、商品取引所)、保険(火災保険、生命保険)、陸運(鉄道、地下鉄、市街鉄道)、海運(汽船、築港)、土木、水道、電気、燃料(ガス、石炭、石油)

②外国製品に替わる国産の製品を生み出すための企業──綿紡績、絹織物、毛織物、鉄鋼、製鉄、製紙、窯業(セメント、レンガ、ガラス)、化学(肥料、薬品)、造船、汽車製造、製革、精糖、ビール醸造、食品(精肉、乳製品)

③完成したインフラに乗って製品等が円滑に流通するためのサービス企業──商社、通信、新聞、印刷、ホテル、不動産、広告、デパート

余談であるが、私が注目したのは、日本のラガービール製造。引用すると
「小資本の町工場でできるイギリス風のエール(常温による上面発酵ビール)から、大資本の近代工場を必要とするドイツ風のラガー(低温による下面発酵ビール)へと切り替えた。低温発酵のラガー・ビールの製造には、高額な冷凍機を輸入して据え付ける必要があったので、大きな資本が求められるようになり、渋沢を始めとする株主の参加が要請されたのである」
現在の日本のビールは渋沢栄一によって路線が決められた、ということである。

帝国ホテル、日光ホテル、京都ホテル、帝国劇場、東京會舘、などなど今でも存在感がある。

還暦で3度目の欧米視察

1900年還暦を迎える。爵位受理は「民」が「官」に懐柔されないかと心配する。
1902年に欧米視察に出かける。

米国で工業地帯を駆け巡り、「米国民の産業でのチームワークの良さ」を見抜く。そして広大な大陸に張り巡らされた流通網に農産物、工業原料が乗っかる。
そして、工場は大きいが事務所は小さいのが普通。(日本は反対)
英国は蓄積された富と資本が健在
ドイツの近代工業の進歩に脱帽

渋沢は日本の商工業が政治に振り回されて「発展しない姿」に憤りを感じた。

1910年70歳で銀行関係と慈善事業を除き事業家引退

ほぼ同時に起こった米国の日本人移民排斥運動に素早く反応し、打開に勤める。
日本人と日本軍部の意識は「日露戦争に勝った西洋と肩を並べる1流国民」
米国民は「訳のわからん奴らが、雪崩れ込んできた」

韓国経済進出を米国賛同で行う

朝鮮の日本統治は当時のTルーズヴェルト大統領には称賛された。ロシア東進を日本が抑える役割を評価された。ロシアから譲渡された東清鉄道建設は日米共同出資という米国側からの提案もあった。
(明治政府の桂太郎などの陸軍幹部の反対で、日本単独建設となった)

77歳で民間外交に捧げる

1916年77歳となった渋沢栄一は、財界関係の役職を全て辞任し「民間外交にの頃の人生を捧げることとした」
おりしも、軍部が強大になり、日中関係が悪化する。栄一の理想とする「官」と「民」が対等に国を動かす姿からは離れるばかりであった。
1921年(82歳)米国に渡り、排日活動家とも会談する
1923年関東大震災 米国からの多額の義援金を贈られる
1926年 米国の学校から青い目の人形を日本の学童に送る民間日米親善開始
日米で大フィーバを起こし、1927年に、日本の各都道府県から返礼人形が米国に送られた。民間外交の成功の一つとなった。

論語の倫理観を広める

公共事業とで田園都市構想、公共事業として栄一は取り組む
職住分離:サンフランシスコのセントフランシスウッド地区をモデルにした。
しかし、開発会社の社長に五島慶太が着任すると、利益優先の宅地開発へと進んだ。

女子教育 共立女子大、東京女学館、日本女子大の設立

渋沢は、「農工商」の教育と並んで、「女子」の教育もまた、新しい社会にとっては必要不可欠であることをはっきりと認識していたのだ。

労使協調の父

一般に、明治の資本家・経営者は、岩崎弥太郎に代表されるように、その猛烈なる自我と利益追求心ゆえ、自分の下で働く人間は歯車の一つとしか見なさず、労働者を一人の人間として人格を尊重するなどという姿勢は皆無だったが、そうした資本家群像の中に渋沢を置いてみると、その異彩ぶりは際立っている。すなわち、渋沢は、武藤山治と並んで、労働問題に強い関心を抱き、その解決の道を模索した数少ない資本家の一人だったのである。

鈴木文治友愛会と良好な関係だったか、1917年のロシア革命以降、労働運動が階級闘争的になり、関係解消した。
しかし、栄一のサン=シモン主義の信念に揺るぎはなかった。
「労働者を過激ならしむるのも、資本家を無理解に陥らしむるのも、考へやう一つであつて、労資双方が『たゞ憎むばかり』『たゞ争ふばかり』であつては、其の関係は益々悪化するばかりで、遂には国家社会にとつて由々しい重大事件となるから、私心を去り、公共の為めを図り、社会と共に栄え、社会と共に楽しむ、と云ふ観念を以て正義を奉じ、道徳を重んじて公正なる道を踏むならば、労資の争ひは解決せらるべきであると信ずる」(『青淵渋沢栄一』)  やはり、渋沢栄一は、そうと知らずのサン=シモン主義者だったのである。

栄一の人間鑑識眼

信念の松方正義、大山巌など「人間の器量」を「才覚」よりも重要視した

「論語と算盤」講演会開催

儒教の核心は道徳と経済に有る=義利合一というタイトルで講義録を作った。

鹿島氏は「論語」と「算盤」の調和というこの思想は、東西の文明が例外的に出会って一つに融合した、「渋沢というメルティング・ポット」から生まれた一種の奇跡。いいかえれば、「論語と算盤」という理念は、儒教で育った明治人に共通するものでは決してなく、むしろ、渋沢以外の人間には思いつくことができなかった「特殊」な経済思想なのかもしれないのである。と渋沢栄一の特殊性を強調している。

これほど特異な思想であったわけだ。

現代も金銭を賤む儒教思想の蔓延

武士の清貧思想(金は卑しいもの)は現代でも当てはまり、2つ例を挙げると
第一に共産主義という「空理空論なる仁義」を奉じたあげく、見るまに崩壊してしまったソ連と東欧諸国。  
二つ目は、バブルに脅え、富貴を悪いもののように見なして、総量規制や金利引き上げなど極端な「仁義道徳」に走ったために、「国の元気を阻喪」させ、「物の生産力を薄くし、遂にその極国を滅亡」に瀕する状態にまでしてしまった二十世紀末の日本の愚かなる政府も、「仁義道徳も悪くすると、亡国になる」という典型。

渋沢栄一は、自分が豊かになることは善いことで、その時に他者の利益を図ることが永続的な経済活動を支えるという信念を持っていた。

ライフワーク「徳川慶喜公伝」編集

1894年(明治27年)からスタート1907年(明治40年)には慶喜公からの直接取材が可能となった。緻密な時代考証と慶喜公の検証で「素晴らしい内容の伝記が成立」
鹿島氏は渋沢が一流の歴史家であったと指摘する。

明治財界の仕分け仲裁役「大岡越前守」

自分の欲得を超えた非合理性が、経済の合理性と噛み合って経済的な発展を生み出した。「日本資本主義の父」

取り巻く多数の女性

堂々たる「感情生活」として子沢山の女性関係を羅列しているが、大きな揉め事にしなかったのは「渋沢の人格」のなせる技であろう。
子孫は嫡子のみ、男子は実業界へ、女子は教育者へ嫁がせる。

1931年(昭和6年)92歳で大往生

まとめ:今こそ論語と算盤を

鹿島茂氏は1992年から渋沢栄一氏の業績を、サン=シモン主義との関連でまとめ始め、企業氏に投稿していた。紆余曲折があって、それをまとめ上げ、2010年に出版された。下巻は新規の発見も盛り込まれ、大部であるが中身の濃い内容で有る。

私は「渋沢栄一の再来」が日本だけでなく世界の経済を立て直すキーだと思っている。
そのために、人を見る目を養い、リードする人を支援する活動を続けたい。
理解したことを「信念」に落とし込むことがどれほど大事か、そしてそれを持続できる環境を作ることがいかに大事か。人生100年大人に学びで、渋沢栄一の理解が深まったのは、嬉しかった。

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