【帝王学「倫理」第三十講 「孔子」】杉浦重剛著 「倫理」より[YouTube]紀元前五百年ころ、孔子の教えは生まれました その教えは、たくさんの人々に学ばれて、 礼と義を重んじる思想に生かされました 孔子の生まれた国の、現状を見ると 孔子の重要性はますます増してくるでしょう

応神天皇の時代に、百済の学者の王仁が 「論語」と「千字文」を持ってきたのは史書に残っています。 ここから、日本で朝廷でも、武家でも儒学が行われるように なりました。
現在でも、上流や中流の人々の道徳教育に 儒教が多く用いらています。 その理由は、儒教が仁義忠孝を基礎に教えるので 古来の日本人の精神と一致しているところが多いので 日本でも、長い期間、広範に学ばれました。 儒教は孔子の考えです。
孔子が我が国の人々の道徳に与えた影響も いうまでもありません

平田篤胤は「西籍概論」という書物で 支那の学問や、人物を攻撃しましたが 孔子のことは尊敬し、諸葛孔明も高く評価しました。
孔子は、名前は「丘」(きゅう)苗字は「仲尼」(ちゅうじ) で、春秋時代の魯の国の昌平村に生まれました。 周の霊王の二十一年十一月で、我が国では 綏靖天皇(すいせい)の三十一年、紀元前五百五十一年です。 今から、二千四百年以上前です。
当時、インドでは釈迦、ギリシャではソクラテスが いました。 
これらの人々が同時だったというのは 大変不思議なことです

孔子は生まれてすぐに、父を亡くし、 そのすぐ後で母を亡くしています。 悲惨な境遇であっただろうと思います。
子供の頃の話はあまり伝わっていませんが 孔子は子供の頃から、礼を尽くすことが楽しくて 仕方がなかった 普通の人と違っていたようですし、論語にも孔子の言葉として 「私は十五歳で、学問に志し、三十歳で自己を確立した」 とあります。学問に熱中したのは間違いありません その時代の、学問の才能は大変優れていました。

魯の国に、孟釐子(もうりし)という高官がいました。 病気で死ぬ前に、子供の懿子(いし)に言いました。 世の中には優れた人がいる、孔丘(孔子のこと)は 礼を尊重する、先生としなさい。
釐子は南宮敬叔(けいしゅく)と共に礼を学びました。 その時、孔子は十七歳でした 孔子の家は貧しくて、身分が低かった 大人になって、李氏の倉庫管理役人になりました。 公平だと評判になり、農業や畜産が盛んになり なんでもできる人で傑出していたことがわかります。
孔子は南宮敬叔(けいしゅく)と一緒に周に行き 礼について、話をしました。老子と会いました。 老子は、お送りして、言いました。 「臣下になる人間は孔子のように、自己主張をしないことだ」
周から帰ってきて、弟子が増えた。 他の人よりも、はるかに優れて、問答を好んだ。

孔子が三十歳の時、斉の国王 景公が晏嬰(あんえい) と、魯に来ました。 景公は孔子に聞きました 「昔、秦の穆公(ぼくこう)は国は小さかったですが どうして、大国になれたのですか」と、孔子は答えて 「国は小さかったが、志が大きく、正義を行い、賢者を 政治に活用しました。これが根本です」 孔子が三十五歳のとき、魯に内乱が起こり、斉に避難しました。
斉の景公は「政治とは」と尋ねました 「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」 景公と孔子の二回のやりとりで、政治の考えがわかります。 景公は、孔子を採用しなかったので、孔子は魯に戻りました。 四十二歳でした 魯では内乱が続き、孔子は門弟の教育だけしました。 そして、五十歳を過ぎました 魯の定公(ていこう)は、孔子を中都の長官にしました。 一年で、皆、国の規則を守るようになりました

出世して、防衛長官になりました、要職です。 斉の大臣に黎跙(れいそ)がいました 景公に「孔子が大臣だと、魯が強くなり、斉を脅かします」 魯に対して、渓谷で戦いを挑みました。 孔子は定公と一緒に、戦場に出かけて言いました 「昔から、軍隊は武だけでなく、文も備えて戦いました 戦場で、文の祭祀を揃えてください」 魯は礼を尽くしたので、斉は恥をかいて帰国し 侵略した土地を魯に返しました。
孔子が、魯の政治をおこなうのに、文武両道を重んじて 内政、外交に大変役だったことがわかります。 定公の治世十四年、孔子は五十六歳でした 防衛大臣として、政治を乱す少正卯(しょうせいぼう) を殺し、3ヶ月もしないうちに、男女は道を別々に歩き 道に落ちているものを拾わなくなりました。

斉の人たちは、それを聞いて言いました 「孔子が政治を行うと、魯は強国になる 近くの強国だから斉は乗っ取られる」と言って 女子八十人、馬三十頭を贈りました。 定公はこれを受け取って、政治に手抜きをして 孔子はクビになりました。 残念な事です。

それから、孔子は魯を出て、十数年強国を回りました。 しかし、どの国も採用しませんでした。
その時の、逸話です
匡(きょう)では捕まりましたが、孔子は 「天は徳を私に授けたが、匡の人は私に何をするのか」
宋の、司馬桓魋(かんたい)が孔子を殺そうとした時 「天は徳を私に授けたが、桓魋は私に何をするのか」
孔子の自ら信ずることが深く、大きいことがわかります。

葉公は、子路に孔子の人柄を聞きました。 子路は答えませんでした、孔子はそれを聞いて 「お前は、なんで答えなかったのだ いつまでも学び、誰も退けない、義憤で食事も忘れ 楽しんで、心配事もない、歳を取るのを楽しんでいる」 これが、孔子の自分の説明です。
孔子は、魯を出て十四年、六十八歳で再び魯に戻りました 魯の王は登用しませんでしたし、孔子も仕官を望まずに もっぱら門弟の教育に当たりました。 一方、礼を習得して、心を平静にして、易経を何度も読み 春秋を改訂して「大義名分」を明確にしました。
ですから、孔子は、人間の行動様式において 完全な発達を成し遂げた人です。 七十三歳で亡くなりました。 周敬王の四十一年、懿徳天皇(いとく)の三十二年 紀元前四百七十九年です。

魯の城北に聖廟を作りました。 司馬遷は言いました 「孔子の時代には、世に受け入れられなかったが 後世になると、教えは輝きを増し 支那の歴代の帝王は、孔子の教えを先生として その子孫を探して、この廟を祭らせています」 今も続いています。 孔子の門弟は三千人 顔回、子貢、子路、曾子などが有名です。

論語は孔子の門人がまとめ、後世の経典です。 程子が言いました 「私は十七八から論語を読んだが、当時からすでに 文(礼)と義があったのを知って、ますます 打ち込んで、その奥深さが分かるようになった」
この書籍で教えをうけた人が歴史的にも多く 連綿としている 聖人の余徳(有り余る徳)が偉大だということです。

人生100年大人の学び

孔子の教えは、日本でも武家社会で多く学ばれた。大義名分、礼や忠義、など思想的には人生の生き方を教えている。しかし、中国の歴史をよく見ると、易姓革命という下克上(裏切り)の正当化が続き、現代の中国もその例に漏れない。
翻ると、これだけ人を引きつける「生き方の手本」を実行することが、人類の平和に寄与できるという温故知新の人なのである。

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