【杉浦重剛 帝王学「教育勅語04」】[YouTube]孝行を尽くした事例が紹介されています 日本の孝行の精神は、支那からの儒教より前にあった のです 親子、君臣 「大御心」「大御宝」 の基本が重要であることがわかります

爾臣民父母ニ孝ニ

1.孝は百行の基なり
人は万物の霊長であるが、その品位のある理由は 他の生物と違って、親に孝道を尽くす点です。 親が子供を愛するのは動物でもできるが、子が親の恩を感じて 親に感謝を示すのは人間だけです。 孝とは、子供が心から感謝を親に対して示す感情です。 孝はあらゆる行動の基で、倫理の根本は孝にあるのです。
孔子は「仲の良い親子兄弟は、上の人に逆らう人は少ない 上に逆らわずに、秩序をかき乱す人はいない。 君子は基本を好むので、孝弟を人の道の根本と考えている」 これを見ると、孝の徳が偉大である理由です

2.「孝経」と孝道
孝道をまとめた書物は、孔子が曾子(そうじ)に作らせた 「孝経」があります。 第36代:孝謙天皇は、各家庭に「孝経」一冊を 持つように命じて孝道を奨励しました。 「続日本紀」には、その詔が書かれています 天平宝字元年(757年)古来からやってきたように、人々を啓蒙するために「孝経」を家ごとに置きなさい。
孝行で知られる人は村の長官に名前を知らせなさい。 孝行に従わない人々は、秋田県や宮城県に送って、周辺防衛に就かせて、性格を直しなさい。
我が国が孝道を尊重するのは、儒学が来る前からのことです。
我が国民は、孝の意味を親子だけでなく他の人々へも広げて適用し、世界に類を見ない国民性にしました。 忠とか勇でも帰結するところは孝なのです。
孝道をしっかりすれば道徳的な人間として立派なのです。 道徳の実行が難しいという人がいますが、それは道徳的生活が 身についていないのです。 道徳の実行は極めて簡単です。 毎日、聖人のしたことを学んで実践すれば良いのです。
勤王の志士吉田松陰は、処刑の日に歌を残しました。
「親を思う心にまさる親心 今日の音信(おとずれ)何と聞くらん 」孝子が親を思う至誠の心が窺えます。

.孝道と境遇
孝は境遇によってやり方が異なります。 中流から下は、親の身体を大切にすることです。これを養体と言います。 父母に暖衣飽食を進めて体の健康を守ります。
上流社会の人は、父母の精神を安定させることが大切です。 これを養心と言います。 祖先の功を発展させるのは上流社会の子供の孝道なのです。 どちらの階級であっても、親に慈しみの心、祖先に敬う気持ちを持って仕えるのは同じです。 この心がなければ、孝とは言えないのです。

4.平時と緩急とにおける孝
孝は通常時(平時)と非常時(緩急)で方法が異なります。 平時の孝道は一見容易に見えますが、父母に長い間仕えて 孝心を育成するのは、優れた道徳家でなければできないのです。 例を挙げます。

①中江藤樹(1608−1648)
中江藤樹は近江の人でした。生まれつき非凡な才能があり 子供の頃から成人の風がありました 。九歳で祖父吉長のいる大洲に行きました。 十一歳で「大学」を読んで「聖人とはこうやって学ぶのか」 と気がついて涙を流しました。 京都から来た僧から「論語」を習いました。 大洲では武が盛んで、書を読むものは無視されたので 昼間は書物を隠し、夜読書しました。 吉長が死んで、近江に帰り、母に一緒に来るよう話しました。 しかし、母は他の国には行かないと言いました。 大洲の藩主に、辞職を願い出ましたがその才能を見込まれて 辞職は受け入れられませんでした 。
仕方なく、家財を売って借金を返して、官位を捨てて近江に逃げ帰りました。 百銭の元手で酒を売って母を養いました。 養体・養心を尽くしました。母の死後三年も喪に服して礼を尽くしました。 子弟の指導はもっぱら「孝経」を講義して愛敬(あいぎょう)を懇々と説明しました。
近江聖人として、現在でもその遺徳が慕われています。

②日本武尊の孝行
日本武尊は、景行天皇の子供で、幼い時から優秀で成長するにつれて容姿が立派で、体力がつきました。 天皇の二十七年八月に熊襲が反乱しました 十月、天皇は日本武尊に討伐を命じました
尊は勇んで出陣しました 十二月、熊襲の国(熊本県)に着きました。 熊襲の酋長取石鹿文(とりいしかや)が親戚を集めて宴会をしているところで尊は酋長を刺殺しました。
天皇の四十年六月に東夷が反乱を起こしました。 誰も征伐できず、天皇は再び日本武尊に討伐を命じました。
十月尊は、首都を出発し駿河土賊を平定し、相模から船で 上総にゆき、そこから東北地方に入ろうとしました。
東夷は船についている大きな鏡を見て、尊の名前を聞いたところ「私は現神(あきつかみ)の皇子である」と答えると東夷は 大いに恐れて、降伏しました。
日本武尊が天皇の命令に従って天皇家の威力を高められたのは 皇太子として理想の孝子と言えるのです。

③楠正行(1326−1348)の孝行
楠正行は父正成と櫻井駅で別れてから、河内の母のもとに帰り 子供たちと遊んでいる時も、尊氏を斬るぞと言いました。 後醍醐天皇が吉野においでになったときには しばしば兵を出して足利軍を破りました。 尊氏は大変恐れて、高師直・師泰に命じて二十あまりの国の兵と共に正行を攻めさせました。
正行は仮御所で、決死の覚悟を天皇に申し上げました。
頼山陽は「日本外史」にこう書いています。
「私は父が湊川で死んだのも知っておりますし、私自身体が弱く 孝を尽くすのが十分できておりませんでしたが、今回の戦で 敵将の首を取るか、私の首が取られるか、命をかけて戦います 一度、天皇のお顔を拝顔させていただきたく」
後村上天皇は、簾をあげてお目にかかり、激励しました。 正行は後醍醐天皇の廟にお参りして歌を読みました。
「還らじと かねて思へば梓弓 なきかずに入る 名をぞ留むる」
四條畷(しじょうなわて)で正行・正時は三千の兵で八万の敵と戦いハリネズミのように矢を受け兄弟互いに差し違えて死にました。 正行 享年二十三歳 残兵百四十三人も全員死にました。

人生100年大人の学び

孝の精神が支那からではなく、日本古来のものであったという記述が大発見であった。孝謙天皇が「孝経」を家庭に配布したことも大発見。先人が日本人の特質を常に考えて、国を発展させてきたこと目に浮かぶようになった。一方、支那では孝も含めて、儒教が定着しなかったのもよく理解できる。

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