學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器󠄁ヲ成就シ
1.学を修むべき事
各自が完全に国家に有用なものとなるためには まず、自分を錬磨するべき。
己を練磨するには、学問を修め、業務を習い 自分の智力を啓発するしかない。
しかし、これだけでは有用の才能はあるが道徳的な 人物としての完全性は備えていない。
徳を習得する努力が必要である。 道理を明確にして、活動に間違いをなくす。
特に帝王として学問を修め、帝王としての智力を 養成するのが帝王の学である。
①源義家の修学
源義家(1039-1106)は、大江匡房(1041-1111)(まさふさ) に「まだ兵法を知りませんね」と言われて、厚く礼を尽くして 大江匡房に就いて、兵法を学びました。 後に、1087年に清原武衡(たけひら)奥州に攻める時に、防護柵を 解体中、雁の群が乱れたのを見て、伏兵を察知し探索兵を出し 兵を見つけ出し、武衡を破りました。
もし、義家が大江匡房の言葉に怒って兵学を学ばなければ 清原武衡の伏兵に負けていたでしょう。
②蛍の光、窓の雪
第99代後亀山天皇の御製
「あつめては国の光となりやせん わが窓てらす夜はの蛍は」
これは、支那の故事、蛍雪の功をお歌いになったものです。
孫氏世録(せいろく)から
孫康は家が貧しく、油が買えなかったので、常に雪の反射で 書物を読んでいた。小さな時から純真で 遊ぶ交わりもなかった。後に行政監察の高官になりました。 晋の車胤は、学問に熱心で家貧しく油が買えず 夏は蛍を袋に入れて書物を照らして夜中読んだ。
我が国では、明治維新前の蘭学者は線香の光で本を読み 西洋の学問を伝えた人もいます。当時は漢学の方が上でした。 今は五條御誓文にある「広く知識を世界に求めるべし」です。
2.業を習うべき事
学問を修めて物の道理を知ったとしても、実地に応用 しなければ役に立たない。 貧富貴賎の差別なく、何かの業務を受け持って 国民としての本分を全うすべきである。 世界列強の競争は日に日に激烈になっているので 国民は勤勉を怠らずに、国力の発展に貢献すべきです。
とりわけ、帝王の偉大な事業は、皇祖皇宗の偉業を 継承することなので、特に注意を払うべきです。
職業が国力の消長に大関係があるので、国民は職業を 卑しく見るような昔の悪習は一掃すべき 職業間に高卑をつけたりするのもやめるべきです。
①スピノザの職業
西洋の哲学者スピノザの職業は眼鏡磨きでした。 卓越した学識と、崇高な品性で当時の欧州の学会を 驚嘆させ、当時の人の尊敬を集めました。
②ダルトンの職業
ダルトン(1766-1844)は英国の化学者。 原子論を確立したが、一生小学校教員であった。 学会へ有益な大発明をした 各自の職業に献身的努力をして、軽薄になってはいけない。 大国民の資格を持つためには、堅忍努力が大事である。
3.以テ智能ヲ啓󠄁發シ
学を修めて業を習う理由は、現在世界各国が科学の 発達競争をする中、あらゆる学問の研究領域で、民間人に 科学的な精神を教育している点にあります。
我が国は維新後50年で、西洋が数世紀かかった学問を 消化しました。 これは、知的に感覚が鋭い国民性によります。
しかし、欧州かぶれの人は「日本人は模倣だけで創造性がない」 と言います。
これは歴史を見ていません。
世界の知識がない時代に大数学家の関孝和は 微積分を発明していましたし、伊能忠敬は測量術を発明しました。 大和民族は模倣で満足しません、学術進歩が遅かったのは 競争がなかったからです。 大和民族が知的に鋭い証拠は、支那の儒学はいまや 日本の学問ですし、インドの仏教も日本で栄えて 日本仏教となっています。 西洋の科学技術も、近いうちに日本で繁栄するでしょう。
4.德器󠄁ヲ成就シ
人間が万物の霊長であるのは、人としての徳性を 備えているからです。 どんなに俊才でも、博学でも、善良な道徳的品性が なければ、本当の人間ではありません。 ですから、道徳的品性を身につけることが、人間として 一番やるべき事です。
①中江藤樹
中江藤樹(1608-48)は、11歳で「大学」の 「天子より以って庶人に至るまで、壱にこれ皆 身を修むるを以って本と為す」との文章に感激して 発奮して、聖人の学問を志し、ひたすら忠孝の学問と実践を 行なって、母に仕えて孝行を尽くし、率先して郷土の人々を 指導したので「近江聖人」と呼ばれるようになりました。
②二宮尊徳
二宮尊徳(1787-1856)は小田原の報徳二宮神社に祀られています。 子供の頃からあらゆる人生の苦労を経験して乗り越え、学を修め 業を習い、智能を啓発し大きな徳を持った人間になりました。 小田原の柏山村(かしやま)に生まれました。家は赤貧で、小さい時から 家業を助けて、母と幼い弟を育てながら読書にふけって 山の木を切り、田畑を耕す往復にも書物を持って、声を出して 読んでいました。
16歳のときに、叔父の万兵衛のところに寄食しました。 万兵衛は、百姓に学問は要らないと言って、灯の油を使わせず 夜間労働をしないことを非難しました。 尊徳は、川の堤防の空き地に油菜を植えてその種から 油を取り、夜は縄やむしろを綯い、夜更けに人が寝てから 灯火に着物を囲って読書して、しばしば夜明けになったという。
このように、普通ではない艱難に耐えて、人としての大義を 会得して、生まれつきの義侠心で、荒地を整地し、だらしない 風潮を正し、悪人を善道し、あらゆる方面で一身を犠牲にして 努力したので、諸大名の財政上の顧問となり 子弟の指導者として、有徳の人となりました。
臣下として模範的人物です。 沼津御用邸の近くですので、その辺りは今でも尊徳の影響力が 残っているのではないかと思います。
以上は、臣民としての例をお話ししました。
殿下が学ばれることは「どうやったら臣民が学を修め 業を習い、智能を啓発して、徳器になれるか」 ということに着目いただきたいのです。 枝葉末節に囚われずに、取り組んでいただきたいお仕事です。
③「寛平御遺誡」にはこうあります
「天皇が多くの思想家の書籍を読み通さなくても、困ることはない しかし「群書知要」は読みこなすべきです。 どうでもいい文書に時間を使ってはいけません」どうぞ、ご注意ください。
④「十八史略」は学問のポイントを次のように言います。
戦国時代に子思(孔子の孫)は衛にいて、衛の王に 苟変(こうへん)を大将に推薦しました。 衛の王は「苟変は昔、役人だったときに、ほかの人の卵を 2つ食べたのでだめだ」といいました。 子思は「上に立つ人は、人の長所を取り入れるべきです とりわけ、戦国の世の中ですから、卵二つで国家守護の 大将を採用しないとなったら、隣の国に漏れたら大変です」 衛の王は「間違っていた」と考えを改めました。 その後、臣下の意見はまとまって、言うことが揃いました。 君子が自ら意見を改めると、上から下まで納得します。 君子の着眼点はそこにあります。
人生100年大人の学び
西欧列強の中に入った日本は、学ぶことを基本に列強との対抗を考える。そのためには国民一人一人が学んで、技術を身につけて、国に貢献できる体制にしなければならない。帝王学として、殿下にお話しされたのは「国民が学ぶ雰囲気、仕組みを作り上げること」だと杉浦重剛氏は御進講されている