【杉浦重剛 帝王学「教育勅語10」】[YouTube]皆が豊かになる産業、事業を行って 決められたルールに従って 日本全体を強くしよう

1.進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ世務ヲ開キ

先に、学を修め、業を習い 知能を啓発して、徳性を育成して 国家に有用な人になるというお話をしました。 さらに、公衆の幸福を計り、世に必要な事業を興して 一般国民の生業を作るべきです。 それが「進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ世務ヲ開キ」です

2.歴代の天皇、公益を広め世務を開き給う

天照大神:農耕・蚕食
第1代神武天皇:勧農
第11代垂仁天皇:水利
第15代仁徳天皇:水利
第21代雄略天皇:養蚕
第26代継体天皇:勧農
臣民も、協力すべきである。 学校・図書館を建てて公衆の智能の啓発をすべき。 病院・孤児院・養老院などで不幸な人を救い 道路や橋を建設して交通の便宜を図り 荒地を開墾して公益に寄与することなどが高尚な事業である。

①野中兼山の公益
野中兼山(1615-1663)は土佐の人。 藩主山内侯に仕えて新政を行い、土佐の評判を高めた 儒者でその政治・経済の実力は日本一でした。
土佐はもともと長曽我部の領地でしたが、断絶後 残されたたくさんの人々は仕事がなくなりました。 兼山はこれに同情し、浪人には新田開発をさせ 水路を作って灌漑しました。 開拓した田地は農民に所有させて、新田の収穫が 十余万石に上りました。 今でも、兼山が灌漑した田地は4200ヘクタールあります。
兼山は土佐の山と海の資源で産業奨励しました。 山には植林、海には交通路を開き、室戸港の整備や 堤防の構築、魚の養殖などを行いました。

兼山はかつて、江戸に行ったときに土佐の人に手紙で 「土佐にはないハマグリをお土産に持って帰ります」 と言ったので、土佐の人はハマグリの珍味を 楽しみにして待ちました。 兼山が帰ってくると、持ってきたハマグリをすべて 海の中に投げ込みました。 人々がその訳を聞くと兼山は「これは、あなた方だけに 贈るのではなくあなた方の子孫にも贈るのです」と答え 人々は兼山の思慮深い考え方に心を動かされました。

②青木昆陽の公益
東京目黒に「甘薯先生墓」があります。 蘭学の大家、青木昆陽(1698-1769)の墓です。 甘薯先生と呼ばれるのは、昆陽がサツマイモで 公益に貢献したからです。
昆陽は長年サツマイモの研究を続けて、凶作の年に 穀物の欠乏を補うだけでなく、作物が実らない 痩せ地でもよく育つので、この栽培を急ぎました。 たまたま、当時の町奉行「大岡越前守忠相」(ただすけ) と知り合い「甘薯考」という文書を提出しました。 それで、サツマイモ御用掛となり、甘薯を薩摩から 取り寄せ、江戸城吹上と小石川薬園で試栽培しました。 結果が良かったので「甘薯考」とともに種芋を 伊豆七島・佐渡などの各国に配布しました。 数年の内に東国に広まり、凶作の年には、サツマイモで たくさんの人命が救われました。

③玉川清右衛門の玉川上水設計
将軍家光(1604-51)になると江戸の街中が賑わい 城東の川や沼を埋め立て、に家を建てる人が増えるが 井戸を掘っても清水が出てこなくて、住民は困った。 将軍は江戸町奉行神尾備前守元勝と相談した。 元勝は、仲間内と相談した所玉川村に、水利技術を持った 清右衛門兄弟がいました。
多摩の羽村から江戸まで多摩川の水を引く企画書を出しました。 元勝はこれを家光に提出し、四代将軍家綱になって 清右衛門が工事をすることとなりました。
この工事は1653年4月に始まり、翌年6月には完成 水路は羽村から四谷大木戸まで行き、さらに掘割を設けて 芝虎ノ門に行きます。 堀は深さ2.4m 幅5.4m 水路の左右には地中を通す分流で 市民に飲料水と消火用水を供給しました。
将軍はその功績を讃えて、玉川姓を授けました。
清右衛門の測量の方法は非常に簡単です。 水路の高低を測るのに、夜、線香やろうそくの明かりを 見て明かりの見えなくなる距離での 上下・左右の距離を測定して利用するのです。 非凡な技術です。

3.常ニ國憲ヲ重ンシ國法ニ遵󠄁ヒ

国民として国家に尽くす徳は、憲法を尊重し 法律を守り、義勇公に尽くすことです。 この内、帝国憲法の尊重と国法の順守をお話しします。 我が国には昔から国憲(国家の根本法)がありました。 しかし、これは明文化された法律ではありませんでした。
その理由は、昔は物事が単純で、国柄が自然で 意識しなくても国が成立しました。 ちょうど、健康な人が健康を意識しないのと同じです。 国はあるけれど、国に関する国体論がないのです。 これが、誇りであり、国民性の美点です。

しかし、国の政治が複雑になるにつれて成文法が 必要になったので、明治元年(1868)に明治天皇は祖州の 神霊の前で「五條御誓文」を発布されました。 これは、後の大日本帝国憲法の基礎となります。 明治二十二年(1889)二月十一日には、皇室典範と帝国憲法 を発布されました。 ここで、我が国の立憲政体の基礎が確立しました。
国憲とは、現在は帝国憲法ですが、古代では「大義名分」 のことです。

①源頼朝、法制を立つ
頼山陽は「日本外史」で、源頼朝(1149−99)が幕府を開き 君臣の分を明確にしたことを讃えています。 「頼朝が天下萬世のために、超えてはならない限度を決めて 君臣のそれぞれが納得しました。これは、源一族のなかでも 突出した功績です」

②豊臣秀吉、君臣の分を明らかにす
文禄四年(1595)明の使いの李宗城、揚方享(ようほうきょう) が「秀吉を日本国王とする」という任命詔書、国王の金印 王冠などを持って来ました。 秀吉は伏見城で会いました。
使者は、御璽の押された文書と礼服を差し出しました 秀吉は僧 承兌(しょうだ)に手紙を読み上げさせました 「爾を封じて日本国王と為す」という言葉を聞いて 秀吉は激怒して、礼服を脱ぎ捨て、手紙と一緒に地面に 放り出しました。 これは、秀吉が我が国の君臣の分を明確にした出来事です。

③醍醐天皇と藤原時平
第60代醍醐天皇(898−930)は英明で臣下を慈しみ 熱心に政治を行われました 。「延喜の治」と呼ばれる立派な時代でした。 平和な時代が長く続いて、臣下の贅沢が目に余るので 天皇は何度も贅沢の禁止を命じますが、無視されます。
左大臣に藤原時平(871−909)が真っ赤な衣服で 朝廷に来ました。天皇はこれを叱って「贅沢を禁じているのに 左大臣がこれでは示しがつかない、何を考えているのだ」 時平は、責任を感じて、自宅に1ヶ月蟄居し 臣下の服装など、改まりました 。上からの法律遵守で下を導かれたのです。

④羽田生養の遵法
文化年間(1804-18)北海道択捉島で事件が発生し 幕府はお目付役の羽田生養を蝦夷地奉行として派遣する こととした。羽田生養は急いで旅の支度をして 武器や大砲を引きながら、千葉県の栗橋の関所に来た ところが、急いだために「通行券」を置き忘れた 事態は一刻の猶予もないと説明しても、関守は許さず また、関所の規則で武器・大砲を預かってもくれない。 羽田生養はやむなく、江戸に引き返し、「通行券」を 持って関所を通った。
関守が相手が高位の人でも規則を守ったこと、羽田生養が 急な事態でも規則に従ったことは立派な遵法精神である。

人生100年大人の学び

日本は、古来から農耕地開発や、養蚕など産業の振興にには熱心で、民が飢えないように、天皇が配慮している姿は、とても自然である。明治に入り、皇室が政治も含めた主導権をとってゆくに際して、国民の豊かさを伴った富国強兵策にとって国憲や国法の尊重は、規律の維持でも重要だったと思える。

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