【昭和天皇 最後の侍従日記】小林忍著 文春新書

人生100年時代のマナビは、太平洋戦争にこだわります。
なぜ、あの戦争が起こったのか?
戦争はどうやって戦われたのか?
戦死者と兵隊の病死、餓死の割合は?
「竹槍」で「鬼畜米英を撃退」は本気だったのか?
そして、昭和天皇はどう関わったか?

今回、出版されたばかりの【昭和天皇 最後の侍従日記】には、今まであまり明確ではなかった天皇の発言が、小林忍氏の日記に残っています。
いくつか私のメモをピックアップします。

二・二六事件で、天皇は大切な臣下を失った。毎年この日は、宮殿にお出ましにならなかった。
(反乱将校は、陛下のために臣下を殺したが、陛下は反乱将校を鎮圧し、死刑にした。これが歴史の事実である)

P.38 1975年5月13日 「天皇の外交」というNHK記者の書いた書籍の広告に「戦争のつぐないとして、戦後平和外交を推進している」という記述に「その内容はおかしい。戦前も平和を念願しての外構だったのだから」とその著書の内容を調べてほしいと(侍従に)言った。

P.40 GHQとの交渉で、骨を折った人より、何もしない上司が、あたかも自分お手柄のように語ったので、驚いた。
P.44 マッカーサーとの会話で奥村通訳に圧力をかけて、秘密を漏らさせたのは、白洲次郎。奥村は懲戒免職になる。白洲は駐米大使候補になるが、米国が拒否。
白洲次郎が何もしていないことは、Stanfordの西教授の調査とも一致する。
奥村は、吉田茂内閣で外務次官で復職。

P.94 1988年12月 鳩山邦夫が、オオムラサキを御苑内に飼育することを提案。売名行為として棚上げとなる
P.97 1989年3月12日 大本営跡を見る。入り口は錆びついているが中は乾燥してきれいに残っている。
P.103 1989年8月29日 記者会見で、東宮時代の欧州旅行を語られる。ジョージ五世の立憲政治が皇室のあるべき姿だと認識されたことを話す。(取材記者たちには、不満の内容だったらしい)

P.110 華国鋒中国首相との面会で陛下は「日中戦争は遺憾であった」と発言したかったが、周囲が右翼の動きとかを考慮して、発言を押さえた。(小林氏は発言に賛成)
P.173 平成天皇への手紙(昭和20年3月から9月)
敗戦は「わが軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである」
「涙をのんで国民の種を残すべくつとめた」

P.269 天皇が靖国参拝を止めたのは、戦犯合祀、とりわけ松岡洋右、広田弘毅を祀ったため。
松岡は開戦の責任者(ルーズベルト案を、自分が関わらなかったからという理由で反対)という認識

直接天皇と話をする機会の多かった小林氏の侍従日記は生き生きした昭和天皇の姿が描かれています。
ご一読をおすすめします。

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