水戸藩の藩主、徳川光圀は、頼房(よりふさ)の 三番目の子供です。
頼房は家康の十一番目の子供で 紀伊藩主、頼宣(よりのぶ)と兄弟です。
頼房は聡明で、緻密に考える人でした
明暦三年、江戸に大火事があって、小石川の 水戸藩邸に延焼しました。 その時、匂坂彌三郎(におうさかやさぶろう)が 若いながら、火煙の中に飛び込んで書庫の大切な 書類を持ち出しました。
年長の家臣たちはこれを褒めて 頼房に、恩賞を出すことを願い出ました。
頼房は次のように答えました 「私も、そう考えたこともあるが火災は今回だけではない もし、恩賞が大きかったら、次回に家財を取りに入る者が たくさん出て、良い家臣を失うこともある だから私は恩賞を出さないで、後日仕事を変える」
年長の家臣たちは感心して納得しました。
賞罰について、頼房が考えて対応していることがわかります。
光圀は、子供の時から才知に優れ他の人とは 大きく違っていました。 ある時、僧侶が人相を見て、「容貌が非凡を表している と言ったことがありました」
父の頼房はまだ後継者を決めていなかったので 三代将軍家光は、頼房に決めるよう命じました。
ここで、中山信吉(のぶよし)が水戸に出かけて 子供たちを観ました。
子供たちは着飾って出てきましたが、光圀だけは 平服で、すぐに信吉を「おじいさま」と呼びました。
信吉は、光圀を抱き寄せて「まことの若殿だ」と 世継ぎに決定しました。
これが、六歳の時です。
光圀が七歳の時、ある日、頼房に付いて桜馬場で 罪人の処刑を見ました。
その晩、頼房は光圀に命じて言いました 「お前は、その首を取って来られるか、どうだ」
光圀はすぐに出かけて、暗い中探し回って 首を見つけたが、重いので髪の毛を掴んで 引きずって帰りました。顔色一つ変えませんでした。
頼房は刀を与えて、胆力を褒めました。
成長するにつれて、学問、武術共に大いに進歩しました。
寛文元年、頼房が亡くなって、光圀が後を継ぎました。 三十一歳でした。
頼房のおそばの臣下、山野辺義忠、直木景猶(かげなお)等が 殉死しようとしましたが、光圀は説得してやめさせました。 当時は戦国の風潮で、殉死者が多いことを誇る風潮でしたが 光圀が禁止してから、幕府も殉死を禁ずる法律を公布しました。
昔、垂仁(すいにん)天皇が殉死を禁じました 長いこと、美談として伝わっていました。
後に、光圀が天皇の遺された決め事にしたがって 慈しみと愛情を施しました。
光圀は、兄の頼重を差し置いて跡継ぎになったことを いつも申し訳なく思って、伯夷伝を読んでから 一層、その感を強くして、頼重の子を跡継ぎにしました。
光圀は、歴史書を編纂したかったのです。 明暦三年からその事業に着手して、考証室に文献学者を 集め、熱心に検討し編集した 何十年もかけて、ほとんど光圀の生涯中、心血を注いで 作り上げたのが「大日本史」です。
その狙いは歴史上の「大義名分を正す」ことです。
皇室の玄孫治紀(はるのり)が「進大日本史表」で 次のように言っています。 「光圀は、子供の頃から学問を好み、義を行う勇気があった 皇族ではないが、皇室のことを考え、歴史が欠けていることに 憤り、実際の記録を作ろうと、人を集め、資料研究館を作り 日本中の資料を集めて、昼夜、寝食を忘れて作業して 神武天皇から始めて、百代、二千年の歴史をまとめました。
将来のためにこれを出版するが まとめた責任は私にある 云々」 大日本史の、光圀の志、働き そして書かれた内容を知るべきです。
幕府がかつて、林恕(はやしじょ)に「本朝通鑑」(つがん) を作らせました。出版する前に 光圀は幕府に出仕してその書物を閲覧しました。本文には 「呉の泰伯(たいはく)を国の先祖とする」 と書いてありました。光圀は大変驚いて 「この説は、我が国の正史にない。昔、後醍醐天皇の時に ある僧が言い出したが、天皇はそれを焼くことを命じられた 今の時代に、このようなトンデモ説を取り上げるのは おかしい。発刊停止にしてください」 尾張、紀伊も同意したので発刊停止になりました。
光圀は、大義を明かし名分の重要性をますます感じ 全力で大日本史の編纂に傾注しました。
光圀は、南朝の忠臣を大変尊敬して元禄五年八月 楠正成のための碑を、湊川に建て 「嗚呼忠臣楠子(なんし)の墓」と揮毫し 朱舜水(しゅしゅんすい)の賛を背面に刻みました。 田を買い取り、廣厳寺(こうげんじ)の僧に依頼して 長いこと供養しました。
光圀は、徳川一門に生まれましたが、大日本史の編纂 湊川の建碑など、尊王の精神を大いに発揮しました。 ですから、徳川時代の尊王論は、水戸がその源で 時代が下って、各地で尊王の士を立ち上がらせました。 これは、光圀の業績として特筆すべきことです。
幕末には、会澤安(あいさわあん)藤田東湖らの 立派な人々が現れ、水戸派の学問を世の中に広めました 全て、光圀から発しています。 東湖は正気の歌(せいき)の作者です。
光圀の時代、支那では明が滅亡する時でした。 朱舜水という遺臣が、清朝には仕官したくない と言うことで長崎に来ました。 光圀はその見識の高いことを知り、お迎えして 招聘して先生として、自ら弟子になりました。
舜水は時々、光圀に適切な意見をしました。 光圀はそれを受け入れました。
舜水がある人に与えた書に 「光圀公は徳があって、慈愛もあり、武もできる 広い知識があって、忠告にしたがって素直である 今時、稀な人だ」と、光圀を褒め称えました。
舜水が亡くなって、光圀は駒込の別荘に祠(ほこら) を作り、自ら祭り、遺された書物三十巻を集めて 門人源光圀編と名付けました。 お互いが深く知り合ったことがわかります。 光圀が、情にも厚い人間だったことがわかります。
元禄三年、光圀は六十三歳で国を綱條(つなえだ)に譲り 粗末な住まいを、久慈の大田の西山に移し 粗食で着物も洗いざらしを着ていました 。
元禄十三年十二月六日、西山で亡くなりました。 享年七十三歳
光圀について、概略お話ししましたが 二・三、追加します。
毎年、元旦には西の皇居を遥拝していました。 隠居してからも、続けました。 また、大風や地震の時には必ず、日光には手紙を出し 増上寺には使いをやって徳川廟の安否を確認しました。 調剤所を家に設けて、医者を置いて、病人が来ると 薬を与えました。 民間の活動に注力して、年取ってからも領内を回り 人々の困っていること、冤罪などを聴きました。 また、産業の振興を心がけて、農業と牧畜を奨励しました。
光圀は、後楽園という庭園を持っていた これは、宋の名臣、范仲淹(はんちゅうえん)の 「天下の先に憂えて、天下の後に楽しむ」 と言う言葉からとって名付けました。 ここにも、光圀の志が見られます。
明治二年、天皇よりお言葉があり 尊王を唱えて名分を正し、歴史編纂して千年の歴史を まとめ上げた功績で、従一位が授けられました。
明治三十三年には、正一位が贈られました。
その時の天皇のお言葉は 「常に皇道がすたれて、武道がおごり高ぶっているのを 心配して、名分を明らかにして、志を歴史編纂に託して 正邪を語りかけ、間違いを正した これは、勤王の先導となり、復古の指針となった 常陸に、行幸した時に、思い出して改めて功績を痛感した 正一位を贈って、私の気持ちを示します」
人生100年大人の学び
水戸光圀は、後の黄門様である。これを読んで2つ気がついた。一つは、徳川家が優秀な人間を集めていたこと。それは思想を伴うものであった。
もう一つは、優秀な人のニーズが高かった点である。だから明の賢臣、朱舜水は、日本に五回も来ている。
学んで「大義名分」のデータベースをまとめたのが光圀であった。