我が国は、五月五日を端午の節句としています。
五節句は、人日(じんじつ)一月七日 上巳(じょうし)三月三日 七夕(たなばた)七月七日 重陽(ちょうよう)九月九日、です。 上巳は雛人形、端午は武者人形を飾ります。
武者人形で、歴史人物は 八幡太郎義家、鎮西八郎為朝、九郎判官義経 坂田金時、加藤清正らがいます。 今日は、源為朝のお話をしましょう。
為朝は、為義の八番目の子供です。 身長が210センチ、やる気満々で左手が12センチ 長く、弓矢が上手でした。 子供の頃から、言うことを聞かない子だったので 父の為義は、為朝を九州に追い出しました。 この時、十三歳でした
九州に来てからは、豊後(大分県)に住んで 鎮西八郎の名乗り、勝手に九州警察長官と称しました。 肥後阿曽三郎忠国を案内人にして 九州を領地にしようとしました 菊池と原田は連合で戦いましたが、為朝は無視して 十三回戦って、十五歳で九州を領土にしました 。
しかし、その後も為朝の暴力が多く朝廷に訴える 人も多かったです。 朝廷は為義を呼びましたが、来なかったので 為義の官位を剥奪して、太宰府に為朝を捕まえるように 天皇の言葉で伝えました。 為朝は、父が官位を剥奪されたことを知り 「私のせいで、罪になった。居ても立ってもいられない すぐ帰って、お詫びをしよう」と東へと行きました。 多くの為朝の兵は、同行を希望しましたが 「京都に行くのに、兵が多すぎてはいけない」 と言って、二十八名の勇者を引き連れて京に入りました 。二十八名の勇者の主な人たちは 須藤家季(いえすえ)悪七別当、手取與次(よじ) 同與三郎(よさぶろう) 三町礫紀平次太夫(さんちょうつぶてのきへいじだゆう) 大矢新三郎、越矢源太、高間三郎、同四郎たちです。
このことは、為朝が武勇に優れているのは天性です 子供の頃は乱暴者でした。 しかし、父が解官されるや、すぐに反省して京都に行き 謝罪して、間違いを正したのは、孝行の実行です
為朝が京都に着いて、それほど時間がたたないうちに 保元の乱が起こりました。(為朝は十八九歳) 為朝は、父の為義に従って、兄の頼賢(よりかた)頼仲 為宗、為成らと共に、崇徳上皇の白河邸に参上しました。 その後、白河邸には源義朝(為朝の兄)平清盛、源頼政 らが集まりました 。
左大臣の頼長は、天下に轟く、為朝に戦い方を聞きました。 為朝の武者らしい様子は、保元物語に書かれています。
為朝が頼長に答えたのは 「九州で二百以上の戦いをしてきました 少数で勝つためには、夜襲が一番です 今晩、高松邸を襲撃して、三方に火をつけ 一方で待ち伏せます 義朝と一緒に戦って、一戦で相手を倒します 世が明けるまでに、やるべきです」と言いました。 しかし、頼長は「為朝は若いから、血気にはやっている 小競り合いの話だ」と言って、使いませんでした。 為朝は退出して、密かに馬鹿にして言いました 「宮廷人は兵のことを知らない。兄の義朝は 武略の根本を極めた人だ 今夜、相手は攻めてくるだろう」
義朝と清盛はその晩、攻撃してきました。 為朝は、単に弓矢に優れているだけでなく 戦いでの勝機を知る、知恵と先見眼と軍略がありました。
為朝は、敵兵が来たのを知ると、怒って言いました 「やっぱり来ました」か 頼長は、為朝を宮廷官吏に任命しようとしました。 為朝は「緊急事態です。兵のことを相談しましょう 官吏にしても意味なし、鎮西八郎で結構」と 辞退しました。
為朝以下、それぞれが門を固めて守って 兄弟たちは、戦おうとして先陣争いをしました。 為朝は、父為義の前で、兄と争う無意味さを知り 「兄上方は、攻撃してください。もし、敵が強くて 攻めにくかったら弟の私に命令してください」 と言って、二十八騎で西門を守りました。 為朝が、清廉で勇壮なことがわかります。 そして、兄たちに手柄を譲り弟としてやるべきことを 守り、派手ではなく実利のあることを行いました。
この一連の事実が、為朝の志を示しています 為朝の二十八騎のうち、二十三人が討死しました。 しかし、西門を持ちこたえましたが、義朝が火をつけて 各門を守っていた兵たちは敗れました。 為義の親子は脱出しましたが、責任追及が厳しく 為義は出家して、義朝を頼って、京都に行こうとしました。 為朝はこれを説得して、関東に戻ったらどうですかと 言いましたが、為義は聞き入れず、京都に出かけて とうとう殺されてしまいました。
為朝は近江の輪田と言うところに病気で隠れていましたが 入浴中に佐渡兵衛源重貞に捕まりました。 朝廷は、死刑に相当だが、勇士なので、肘の筋肉を切って 伊豆大島に流刑にしました。
為朝は、大島から三宅島や八丈島を征服して、税金を全て 取り上げました。 伊豆介(すけ)工藤茂光が京都に行き、これを訴えました。 朝廷は茂光に命じて、五百騎の兵で討伐を命じました 。為朝は、あえて戦わず、ただ大きな弓で沖の船を一隻沈めて 家に帰り、割腹して死にました 。享年三十二歳
大日本史には 為朝は弓が超絶にうまかった、強くて長い弓をひき 後世はその矢尻で、槍を作った。 伊豆大島には、為朝の祠が祀られている これは、皇室がお褒めになったことです。
まとめますと、為朝は単に武勇一辺倒の武将ではなく 忠と勇を持ち、しかも知恵もあり 義理に固く人情に厚い人で、我が国の武士の 模範とすべき人です。
徳川氏の時代になると、滝沢馬琴が「弓張月」という 本を出して、為朝の忠勇と知略を書きました。
この本は大変に人気になって 子供たちに大きな影響を与えました
人生100年大人の学び
源為朝と、頼朝が区別できない私には、為朝のまとまった業績が理解ができた。
まだ、武家社会が出来上がる前に、武家の精神が培われていたことは、新しい発見でした。武士道というのは、江戸時代より前から存在していて、孝行と、忠誠とが基本にある精神だと理解しました。江戸時代=武士文化ではないということでもある