蠶を「倫理」という帝王学的観点からお話しします。 日本では、米に続く産物です。 食の代表が米なら、衣の代表は絹です。
管仲は「衣食足りて、礼節を知る」と言いました。
蠶の一生は、虫の変化としても大宇宙の仕組みで 変態を遂げてゆきます。
我が国の輸出金額のTopが絹です。
福島県や長野県の産地の人の苦労のおかげです
日本書紀には、こう書かれています。
天照大神は月夜見尊に「日本に保食神(うけもちのかみ) がいるという。会ってきてくれ」と言いました。 月夜見尊が会いにゆくと、その神は 陸に顔を向けるとたちまち、口からご飯を出し、 海に顔を向けると、大小の魚料理を出し、 山に顔を向けると、大小の獣料理を出しました。 それらを百の食卓に並べて、月夜見尊に差し上げました。
すると月夜見尊は「汚らしい、卑しい、口から出たもので 私をもてなすなんて、なんということだ」と言って 剣で食卓を切り、天に戻り報告しました。
それを聞いて天照大神は、カンカンに怒り 月夜見尊に会いませんでした。
それで、月夜見尊とは別に住むことになりました 。
その後、天照大神は天熊人(あまのくまひと) を遣わせて 保食神(うけもちのかみ)を見に行かせると 死んでいました。 その神の 頭は牛と馬、額の上には粟、眉の上は蠶 眼の中は稗、お腹には稲 が生えていました。 天熊人は、まとめて天照大神に差し上げました。
天照大神はたいそうお喜びになって 「これを食べて生きてゆける」として 粟・稗を畑の作物、稲を水田の作物にされました。
そして、口から糸を出す、蠶の利用も始まりました。 ですから、天照大神の時代には既に 絹の衣服を着用していたことがわかります。 養蠶と織物の歴史は古いのです
応神天皇の時代に、百済の阿直岐(あちき)は 裁縫女を貢ぎました。 王仁は、鍛冶工と、機織り職人を連れてきました 。天皇は、織物を奨励したので、使者を呉に送って 女工を集めたこともあります。
仁徳天皇は弓月王が連れてきた百二十七部族の 秦の人たちを全国に配置して、養蠶と機織りをさせて 絹を献上させるよう、命じました。 日本古来のものより、優れた織物だったので 天皇はその職人たちに波多君(はたのきみ)という 姓を与えた 天皇の蠶業(さんぎょう)、織業振興奨励です。
雄略天皇は六年三月、皇后に養蠶をしてもらおうと すがるという人に、蠶を持ってくるように言いました。 すがるは、何を勘違いしたのか、赤ん坊を差し出しました。 天皇は大いに笑って「この子はお前が養いなさい」 すがるは、赤ん坊を育て、少子部連(ちいさこべのむらじ) という姓をもらいました。
十六年七月、桑の栽培に適したところは桑を植えさせました それだけでなく、呉に使いを出して、職工を集めました。
その時、時漢織(ときあやはとり)呉織(くれはとり) 兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)たちを連れてきたので 天皇は衣縫部(きぬぬいべ)を設置して、各地に桑を 植えさせてました。 移民した、弓月王の孫の酒君(さけのきみ)をリーダーにして 九十二郡に、一万八千六百七十人配置しました。
酒君は、養蠶業を始めて、絹を織って献上しました 御殿の前には、織物がうず高く積まれたそうです。 天皇は酒君の功績をお褒めになって、宇都麻佐(うづまさ) という姓を授けました。 ここから、養蚕、絹織物が大発展しました。
これをふまえて、継体天皇は元年に、詔で 各地の官吏に農業、養蚕の振興を命じました。 奈良時代には 元明(げんみょう)、元正(げんしょう)、聖武天皇 平安朝では 平城(へいぜい)、仁明(にんめい) の各帝が養蠶を奨励されました。 しかし、内乱があって養蠶が衰退しました。
朱雀天皇は、左京大臣に命じて 養蠶の振興をはかりました
武家の時代、正平(しょうへい)年間に 大内弘世(ひろよ)が、織物業を山口でやろうとして 京都の織物職人を連れてきて、機織りをさせました。
応仁の乱の時には、京都の機織職人は都から逃げました。
秀吉の時代になって、機織職人を都に呼び戻し 年々織物業は盛んになりました。
徳川の時代には、寛文年間、家綱の時代に「羽二重織」 ができました。
亨保年間に、日野、桐生、伊勢崎などの織物業が盛んになり 上杉鷹山も、米沢の織物業を盛んにしました。 吉田松陰も、自分で養蠶していたそうです
明治以降では、養蠶、機織産業を奨励して 現在のような隆盛になっております。 このように、古来の養蠶業と関連産業が 歴代の天皇の奨励で今日のような 一大産業となっているのです。
支那では、黄帝(こうてい)の時、るいそが養蠶を はじめたおかげで、寒さによる病気はなくなりました このように、養蠶は古くからあるのです。
漢の文帝の時、賈誼(かぎ)が上申しました。 「畑を耕さねば飢えます、機織りをしないと寒さにやられます」 文帝は農業と機織を奨励しました。
諸葛亮は言いました 「成都に桑が八百株、田んぼが九十ヘクタールある 人々の衣食には十分だ」と
西洋には、養蠶業はありませんでしたが ローマ人は絹を大変尊重して、支那を絹の国と呼びました。 東ローマ帝国のユスティニアヌス帝の時、養蠶が伝わり 奨励しましたが 支那や、我が国のように産業にはなりませんでした。
以上、産業としての養蠶についてお話ししましたが 三字経に次のような言葉があります。
「蠶は糸を吐き、蜂は蜜を醸成する 人は学ばないと、無能になる」
昔から、国の経営を経綸(けいりん)といいます。 経は糸を引き出し、綸はそれをまとめて形作ることです。 蠶が糸を引き出して、繭を作るように、天下国家を 治めることです。
易経に「君子は経綸する人だ」とあります 国を正しく治めるのが本当の王様です。
人生100年大人の学び
帝王学としての「蠶」の話は、蠶の変態を利用した、絹の利用に変わり、昔の日本が民族、技術の移動を盛んに行っていたことがわかる。後世になると、産業振興として、地域の富を生み出す手段として重要視されてきたことも見えてくる。
最後は帝王学としての「経綸」にまとめ上げられる。話として、わかりやすく、面白い。