2001年、著者の磯田氏は神保町の古書店の案内目録から「金沢藩藩士猪山(いのやま)家文書」を15万円で入手する。内容は1842年〜1879年までの37年間の加賀藩士の詳細な「家計簿」である。幕末から明治の初期激動の時代の家計簿のみならず、日記も含まれていたのである。そこには、猪山家の教育方針あり、加賀前田藩の政治、経済危機あり、そして、明治維新による士族の変遷がある。
記録に基づいた解説が、我々が今までうかがい知れなかった時代背景を加賀藩を通して見ることができる。そして、事実に基づいた論理的解釈は、今の時代にも当てはめることができる、貴重な著作である。
猪山家は代々、加賀藩の算盤係である。その道では「会計のプロ」を務める。収入は決して多くなく、親子で算盤係を務めて、やっと家族の生活をまかなえるレベルであった。幕末から明治へとの移り変わりは「直之(なおゆき)」とその子供「成之(なりゆき)」の時代であった。
現在も使えるという観点で猪山家の特色を挙げてみる。
算盤係という職に関して子供の頃から「プロ」技術、根性を叩き込む。
そして、すべてを算盤からはじき出したデータで説明する。(汚職や不正には与しない)
著者によれば、日本だけでなくヨーロッパでも「算術」が時代を変えたという。国と軍隊の管理技術が「算術」によるためである。(ナポレオンは砲兵将校出身)
日本では武士階級は算術を卑しいと見ていたフシがあり、技術のできる人間は限られていた。
加賀藩の財政担当部署は「御算用場」といい150名ほどの算盤係が勤務した。藩の実務拠点として重要な地位を占めていた。直之の父「信之」の時代に猪山家は江戸詰めになる。これは藩士としては出費がかさみ、猪山家に多大な借金を残す。(当時、加賀藩も財政逼迫で藩主前田斉泰が将軍家斉の娘溶姫を迎えるために作られた「赤門」(現在の東大赤門)は、表は見事な朱色であるが、裏は白木だったという記述もある。)切り盛りは功を奏し、「信之」は領地を与えられる「知行取」へと出世する。しかし、江戸詰めと、交際費の出費がかさんで借金は雪だるまのように膨らんでくる。
「信之」の四男「直之」は非常にできが良く、26歳で藩主にお仕えする書記官になる。しかし、前述のように借金は年収の2倍を超えていた。その利息も含めると返済は終わらない。「直之」は猪山家の借金返済を断行する。売れるものをすべて売ってしまい、借金の元本を減らす。家族の抵抗もあったが、具体的には借金元本40%返済、残りは無利子10年分割返済に収めた。
武士階級の困窮のエピソードは著作の中では生き生きと描かれている。
そして、幕末1844年「成之」の誕生となる。成之も有能な算盤係にはなるが、時代は石米ではなく「藩軍」の訓練に伴う、兵站の計算へと様変わりしている。実務を正確にこなす、ひたすらそれに注力する。上からの指示に忠実に従い、実務をこなす人間なのである。1867年「成之」は、急遽京都に派遣され「加賀藩兵糧焚出」役となった。しかし、加賀藩は、徳川方についていて、鳥羽伏見の戦いでは、戦を放棄して加賀に逃げ帰っている。加賀藩は朝廷側につくことを表明し「成之」は再び京都駐在となる。そこで、彼は「軍務官」大村益次郎に呼び出され、軍の兵站担当に任じられる。その仕事の中には、豪商からの集金なども含まれていたという。大村益次郎の意を汲んで東奔西走の活躍をしたという。
P.171 には著者は「官は税金から自分の利益を得るため、好き勝手に制度を作りそれに対して国民がそれをチェックできないという病理は、此の頃始まっている」と断言している。古文書を読み解いて出てきた、貴重な言葉である。それは、「成之」が、他の士族とは異なり、自分の技術で新時代の職を獲得をしたことも含まれる。
しかし「成之」の晩年は、末子を日露戦争で亡くし、後継者がシーメンス事件で寛解を追放された。これが猪山家の歴史の流れである。
著者は、猪山家のデータを解析して2つのことを教えられたという。P.218
一つは「今いる組織の外に出ても、必要とされる技術や能力を持っているか」
もう一つは「自分の現行をなげき、社会に役立つ技術を身に着けようとした士族には未来がきた」
確信を持って言えることは「怖れず、まっとうなことをすれば良い」と。
著作、映画いずれもおすすめである。
PS: Amazon.co.jpのPrime Videoでは無料で視聴できるようである。