【ある明治人の記録】会津人柴五郎の遺書 石光真人著2018年刊 電子版2019年刊 柴五郎陸軍大将の備忘録を再構成して出版 世界に尊敬された明治軍人の人道主義が浮かび上がる

地味なタイトル

中味は「誇り高き日本人、頑固な会津人の記録」
森五郎陸軍大将の少年時代に遭遇した会津戦争、それに負けて、会津藩は懲罰的下北半島の斗南開拓に送り込まれ、辛酸を舐める。森五郎氏は当時の状況を記録し、備忘録としてまとめ、故郷の菩提寺恵倫寺に奉納する。森氏が亡くなる3年前に、石光氏が公開を許可され、森氏との対談で、内容の検証と文章の改訂を行い出版することとなった。

1900年清朝の排外運動の義和団事件のとき、森五郎氏は北京駐在武官で、事態の収拾と叛乱分子の事後処理で、道義を守った対処が、列挙の国々、そして中国人からも尊敬された人物である。

名文である

冒頭を引用する。会津戦争で祖母、父母、姉妹を失った(女性は皆自死)悲しみをひきずりながらの人生だった。

非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮びて余を招くがごとく、懐かしむがごとく、また老衰孤独の余をあわれむがごとし。
時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言なれど、ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり。
過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず。
落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を嚙み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。

悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。

江戸時代

他藩もおおむね同様なりしと思わるるも、徳川三百年の封建の体制は、公私を問わず、その組織と生活とをすみずみまで厳格に律したるも、余等幼き者にとりてさえ、さして窮屈の感なし。その体制に添うがごとく幼時より訓育されたるためと思わる。

大政奉還の策謀

1867年10月15日に大政奉還が行われるが、岩倉具視と、(薩摩)西郷隆盛、大久保利通が策謀し、慶喜公暗殺と、会津藩討伐を上奏し詔勅を賜る。
1868年2月会津藩主松平容保公は、会津に戻り城下に謹慎する。

しかし、明治政府は会津藩を追討する。
その主体は、薩摩、長州、安芸、土佐、大垣連合
会津城は落城し、祖母、母、姉妹は自死する。
森五郎はこの悲しみを生涯背負う。

下北半島斗南藩の開拓

1870年会津藩を火山灰地の開拓地(恐山の近く)に送り込み斗南藩とする。

あばら屋で衣服も十分でなく、食料は、犬を殺して食べたり、蕨根からデンプンをとって飢えをしのぐ辛酸生活を送る。
薩摩に笑われまいと歯を食いしばって生き延びる。

野田豁通(ひろみち)との邂逅

熊本の人、横井小楠に学び、青森県大参事(県知事)として赴任 28歳
義侠無私の人で後進を養うのがうまいと森五郎は評価する。
当時は「薩長土肥の藩士にあらざれば、人にあらず」という風潮であったが野田は人物本位で人を見た。

後進の少年を看るに、「一視道仁」


ただ新国家建設の礎石を育つるに神魂を傾け、しかも導くに諌言を持ってせず、常に温顔を綻ばすのみ
森は初めてビールを飲むが「苦くして薬のごとく不味し」と評価。

東京で野田と再会

1872年森五郎は上京する。新橋―横浜間鉄道開通
野田豁通も陸軍会計一等軍吏で東京勤務
野田に陸軍幼年生徒隊(陸軍幼年学校の前身)への応募を勧められ、森は即応募。

1873年陸軍幼年生徒隊合格

フランス語で授業
フランス人の教官
成績はビリで、ある時がむしゃらに勉強して作文を仏訳して暗唱。授業で初めて絶賛を浴び、劣等感が消え成績も良くなった。
榎本武揚に会い「身体強壮、心正しく、学問を身につけよ」と教わる。
その後、陸軍幼年生徒隊の教育は日本人教官が中心になり日本語での教育に切り替わった。

最後の反乱 西南の役

1876年 熊本神風連の乱 西南の役へ
1877年 西郷自刃
1878年 大久保暗殺

著者石光氏の森氏評

会津精神の化身
日露戦争の時は、日本の国軍は立派。
旅順陥落でも、市民を避難させる提案をした。
捕虜の取り扱いも国際条約遵守

敵将クロパトキンが日本軍を称賛

日本勝利後、敵将クロパトキンが日本軍を世界に稀に見る軍隊と称賛。

武士道は廃れた

しかし、第二次大戦では「武士道の退廃」が指導者を質を下げた。
石光氏の父は熊本出身で野田豁通氏と同郷もあり、第二次大戦中には森氏と交流があった。1880年、維新の犠牲者を祭る靖国神社が建立されたが、会津藩士たちは祭られなかった。

明治政府は、薩長藩閥体制と、官僚独善体制を残した。

人生100年大人の学びとして、素晴らしい内容だと思う。
森氏は野田豁通氏との出会いをきっかけに人生を転換してゆく。
会津戦争で亡くなった身内の無念さと、当時の薩長藩閥体制の差別を受けながらも。
北京駐在中に起こった義和団事件では、森氏の過去の悲惨な体験が、事件後の中国人の取り扱いに反映され、列強からも、中国人からも称賛された。
私は、このポイントが重要だと考える。
日本軍人は「人道主義だった」のが、国際的に認められることだった。
国際標準だったと言うことである。
日本は、戦後、外側の対応はできたが、内側の思想や価値観はあまり見つめられてこなかった。
いまこそ、内なる日本人を考えるところに来たと確信する

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