【杉浦重剛 帝王学「教育勅語02」】[YouTube]日本の忠孝の気風と 歴史の事実 司馬遼太郎の歴史小説に騙された私

我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ
1.忠孝の本源
我が国の国体(国柄)は古来から天皇が至高の仁愛を人々に注ぐ徳を持ってますので、我が国の国柄は国民の精神も他の国の人たちとは違います。 国民は至誠を尽くしてお仕えするのです。 一時の権勢に屈服して心中に不満を持つ他国の君臣関係とは全く違います。
日本国民と皇室は孝子が親に仕えることと同じです 忠孝一本です。 我々祖先が萬世一系の天皇にお仕えしたように心を込めて天皇に仕えます。 祖先の心を中心として君に仕えるのが忠で同時に孝なのです 。

2.忠とは何ぞや
「忠」とは純粋な至誠の心で天皇に仕えようとする高尚な道徳的感情をいいます。 これが、大和民族の存在する限りこの感情で生きています。 昔から、史上多数の忠臣が出てきた理由です。 これから忠臣の例を挙げます。

①田道間守(だじまもり)と非時香菓(ときじくのかぐのみ)
第11代:垂仁(すいにん)天皇にお仕えして田道間守に非時香菓(=橘の実)を大陸に渡って探して持って来させた。天皇が140歳でお亡くなりになると非時香菓が陵に大量に供えられた。田道間守は、天皇崩御を聞いて「橘を探すのに何十年もかかった。もうこういう仕事はない。生きている意味がない」と天皇の陵で泣いて自死しました。
それを聞いて、天皇のお付きの大臣たちは皆涙を流したという。 田道間守は、君を思う気持ちがひたすら真心から出ていたということです。

②和気清麻呂の忠節
和気清麻呂は備前の人であった。
孝謙天皇(実は称徳天皇)の時に、因幡を治める非常勤次官であった。 人柄は、真っ直ぐで正義感が強かった。 天皇は宇佐八幡を信仰し、そのお告げを全て聞き入れた。 僧道鏡は天皇に気に入られて、法王になり、太宰府の神官阿曽麻呂が、嘘をついて「八幡の神が、道鏡を天皇にすれば国は太平になる」と天皇に言いました。
天皇は清麻呂を呼んで、宇佐神宮に行って神託を聞いてくるように命じました。 出発する前に、道鏡が、剣を付けて、目を怒らせて清麻呂に言いました「宇佐の大神は私を皇位につけようとしている。これが確認できたなら、お前は太政大臣にする。さもなくば、重罰に処す」
清麻呂は宇佐にお参りして、戻って天皇に報告しました。
「我が国は、できてから今まで、君臣の分が決まっています。皇室を継ぐのは必ず皇室の子孫です。つながりのない人は排除すべきです」

道鏡は激怒して清麻呂の官職を剥奪し、名前を穢麻呂と変えさせて、鹿児島に送る途中で殺そうとしました。 しかし、雷が来て暗闇になり暗殺者は手が下せませんでした。 清麻呂は、天皇の使いによって許されました。
孝謙天皇(実は称徳天皇)がお亡くなりになって、光仁天皇(こうにん)天皇が即位されて、道鏡を栃木県に送り清麻呂を復位させました。それから、従三位を授かり、67歳でなくなった時には正三位、嘉永四年(1851年)には正一位を授かり、明治七年(1874年)には護王神社を別格官幣社に格上げしました。
清麻呂の報告は皇室を護持した上で護王大明神にふさわしい。

③楠木正成の孤忠
楠木正成(1294-1336)は大阪の人
第96代後醍醐天皇は、北条氏を討伐する計画が漏れて、密かに笠置にお出かけになり、正成に討伐の策を聞いた。 すると正成は「天誅ですから、北条氏は倒れます。北条氏は軍事力では圧倒的なので、勝つためには謀略を使うのです。しかし、戦に勝敗はつきものですので、一度くらい負けたと言っても動揺してはいけません。臣下が生き残っている限り、天皇はご心配することはありません」 至誠の心と、任を重く見る態度が素晴らしい。
そこで正成は、赤坂城、千早城に少ない軍勢で、北条の大軍を引き寄せて戦い、大いに北条氏を悩ませました。 正成の勤王の精神に動かされて、新田義貞が北条氏を滅ぼし、後醍醐天皇は隠岐島から京都にお戻りになった。 正成は七千の兵で後醍醐天皇を兵庫にお出迎えした。
天皇は「おかげで大事業が達成できました」と言うと、正成は「天皇の威霊(神としての威力)がなければ大軍から抜け出て、今日お目にかかることはできませんでした」 謙譲で、自分の功績としない心がけである。
その後、足利尊氏が天皇に背き、正成は奇計でたびたび尊氏を破ったが、尊氏が西海の軍を率いてくる時には、天皇に策を進言しましたが受け入れられず、策が尽きました。
櫻井の駅で、子の正行(まさつら)に訓戒しました。
頼山陽の日本外史には桜井駅の訣別があります 正行は当時十一才、正成は言い聞かせて河内に帰しました。
「お前はまだ小さいと言っても十歳を過ぎた。私が死ねば世の中は皆足利につく。どちらが得かとか、利益を考えて、私への義を忘れるな。同族に一人でも生き残りがいれば、昔の千早城を取り返して、戦い、身を国のために捧げることができる。それが私への恩義と考えなさい」
正成は、天皇からいただいた菊花紋入りの宝刀を正行に授けて別れました。手兵700で湊川に陣取り、尊氏の大軍と戦い、11箇所の傷を負って最後には、弟の正季(まさすえ)と差し違えて死にました。 正成 享年43歳 正季 享年32歳 一族十六名、残兵五十余名も全員死にました。
天皇は深く哀悼されました。
正成は策を進言して受け入れられなくても、微塵の不満も持たずに、正行に遺訓を伝えたことは、忠義の権化とも言えます。
後に、水戸藩主徳川光圀は「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建てて讃えました。
頼山陽の「日本外史」には正成の行動を忠義による勤王精神として取り上げ、杉浦重剛もこの著作により、現在の精神を持つようになり、大義名分の意味がわかるようになりました
山陽は著述家として優れているだけでなく、行動も孝を尽くす人だったと聞いています。

④乃木将軍の誠忠
明治天皇の時代は、忠臣と呼べる人が多かったと思います。 陸軍大将の乃木希典(1894-1912)は誠忠の人でした 父は乃木十郎希次(まれつぐ)、叔父の玉木文之進の教えを受け、日清・日露戦争に出陣して、武功を立てて、明治天皇の信任も厚かった。
晩年は学習院長として華族の子弟を教育し、勤倹実践を奨励しました。
武将として、教育家として熱心に明治天皇の大御心に叶うことをいつも考えていました。
明治天皇が明治四十五年(1912年)お亡くなりになると、将軍は大変悲しんで、天皇の霊柩車が皇居を出る九月十三日に赤坂の自宅で自刃されました。 残されたお歌です
「うつし世を 神去りましし 大君の みあとしたいて 我はゆくなり」
静子夫人も傍で自刃されました。
乃木将軍は日常生活が、人々のお手本でした。 常に楠公の誠忠を尊敬し、それに背かないように気を付けていました。
かつて、楠氏の忠を慕ったお歌があります。
「根も幹も 枝も残らず 朽ち果てし 楠のかをりの たかくもあるかな」
将軍の母親は、かつて将軍が台湾総督の時に、永住するつもりで渡り、現地の風土病で亡くなりました。 この歌の根が朽ちたという言葉がそれです。 夫婦で明治天皇に殉死したのは幹の朽ちたると言う言葉です。 勝典(かつすけ)保典(やすすけ)の二人の子供が日露戦争で名誉の戦死したのが枝の朽ちたるなのです
。 乃木将軍の誠忠は永遠に国民を感服させます。

3.孝とは何ぞや
孝というのは、至誠の心で、子供が親に従う道徳的な感情です。 孝は我が国固有の道徳です。 お国柄で見ますと、忠孝は一致で、親に尽くすのは君に忠となり、君に忠は親に孝ということで二つは同じです。

①神武天皇の至孝
ご先祖の遺訓を守って、国を拡張したことが大功績で、しかもその大事業も自分の手柄ではなく、皇祖として天照大神を鳥見山の中に祀ったことが、至孝を国中に知らしめました。

②養老の孝子
美濃の国に貧しい木樵がいました。父親が酒が好きで毎日酒を買って飲ませていました。ある日山の中で転んで、酒が湧き出ているのを見つけ、毎日そこから酒を汲んで父親に届けました。
第44代:元正天皇は美濃に出掛けた時に、その話を聞き、その泉を養老の滝と名付け、年号を養老としました。
科学的根拠は別として、孝行の徳の影響が大きいというお話です。

③平重盛の孝道
平重盛(1137-1179)は平清盛の嫡子です。 人柄は慎ましく温厚で、武勇に優れています。 1177年藤原成親(なるちか)が平氏を滅ぼそうと考え、後白河法王と策謀しました。 清盛は成親をつかまえて、法王を別宮に幽閉しようとしました。
重盛は人伝に聞いて駆けつけると、集まった人たちは武具をつけて戦闘に出かける姿をしていました。 重盛は公家の装束で入りました。
弟の宗盛が重盛の袖を引っ張り「どうして武装しないのですか」と聞くと重盛は「何をやっているのだ。敵はどこにいるのだ。私が大将だ。反逆者が皇居に来ていないのであれば武具など着けてはならない」といいました。
清盛は遠くからこれを見て、武具の上から僧侶の衣服をつけて出てきて、しきりに襟元を直すが、襟元から武具が見える。
清盛は重盛に「成親の企ては法皇も絡む。このような企てがあったので立ち上がった。」と言った。
重盛は「それなら、私の首をはねてからにして下さい」 と答えました。
重盛は家に戻り、その晩「事件が起こったので、私に賛同するものは集まれ」と命令すると、老いも若きも重盛の小松の家に集まりました。
六波羅の清盛の家には誰も来ませんでした。
重盛は父の清盛に使いを送って伝えました。
「法皇が私に命じて、あなたを討伐せよと言われています。君命ですから仕方がありません。もし、反乱すれば六波羅を包囲します」
清盛は驚いて、反乱しないことを誓い、助命を嘆願した。
重盛は集まった人々に「今回は父の無茶を止めるためであった。今後もそのような時は集まってくれ」
武将たちはその忠孝の厚さに涙を流しました。
重盛は真の忠孝を行うことで、父清盛の暴挙を未然に封じました

人生100年大人の学び

忠孝を軸に、日本人の「君臣」「親子」関係が、フラクラル構造になっていることを示している。多分、日本人はこの構造でないと、納得、理解できないのではないかと思う。大東亜戦争前の和平工作などに「善意の解釈」が見られるのはその一例であろう。私的には司馬遼太郎の歴史小説に振り回された時代がもったいなかった。

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