【杉浦重剛 帝王学「教育勅語08」】[YouTube]日本人の博愛精神は、天皇から庶民まで 女性も大活躍の歴史

博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ

1.博愛とは何ぞや
「我が身をつねって人の痛さを知れ」
「己の欲する所を人に施せ」
これらは、同情に訴える道徳的命令である。 人はそれぞれ同情を持っているので、同情を拡大した ものが、博愛となる。
博愛とは結果の報酬を思わずに、純利他的感情から起こる同情 博愛は赤十字社事業のように敵味方なく四海兄弟なりとする 博く愛する徳なので、最も進歩する国民でなければ発達しない。

同情の徳は人間だけでなく、動物に対しても見られる。
「孟子」の問答記録にこうあります。 王が城から城下を見ていると、牛を引いている人がいました。 王が、「牛を連れてどこへゆくのだ」と聞くと 「これから、鐘を血塗りの生贄にします」と答えました。 王は「死ぬのでビクビクしている、ここに牛を置いておけ」 「では、鐘の血塗りはやめませんか」と聞くと、王は 「やめない、生贄を羊に変えなさい」と言いました。「牛がかわいそうなので、羊に変えたのだ」これが王の同情心で 生きているものが、死ぬのは見るに耐えない、ということです。
同情することで、肉を食べることも遠慮して 君子は台所を遠ざけたと言う話である。

2.博愛の方法
博愛を行うには、順序があります まず、近いところから手掛けるべきです。 自分の親や兄弟を愛さずに、他人の親や兄弟を愛するのは 徳に反します。
自国民のことを考えずに、他国民の事をするのは売国奴です。 自分に関係の深い人に十分義務を尽くすと同時に、余力を以て 博く他人を愛すべきです。 もしすべての国民を平等に愛すべきとなると、忠君愛国の 優秀な道徳感情は、どうやって維持できるでしょうか。
国民道徳は、忠君愛国が最優先です

①仁徳天皇の博愛
天皇が高台に登って、炊煙が上がっていないのを見て 民の貧窮を知り、三年間の税、用役を免除したのは博愛の 実践です。

②光明皇后(こうみょう)の博愛 第45代聖武天皇の皇后(701-760)はとりわけ、慈善の心 が深く、まず慈善院を作って施薬院と命名し さらに養育院を作って悲田院と名付けました。 伴侶や家族のない独り者や、廃疾不具のものもこれらで 衣食、住処を得るようになりました。 皇后のおかげです。

③明治天皇の博愛 明治天皇(1852-1912)の御仁徳は、常に困った人々を 救われたことです。 済生会(恩賜財団)を設立され、また博愛心の強い人には 藍綬褒章を授けて、功績を讃えるなど、徳が広大でした。

④和気広虫の慈仁
和気広虫(730-799)は和気清麻呂の姉です。 第46代孝謙天皇(=48代称徳女帝)にお仕えして 可愛がられました。 その頃、藤原仲麿が乱を起こして罰せられ、四百人余りが 斬り殺されそうになった時に、広虫はこれを哀れんで天皇に 忠告しました。それで、死一等を減じて流罪となりました。
ある時、飢饉があって食べてゆけない人々は 道端に子供を捨てることが多かった。 広虫はその子たちを引き取って育て上げました。 その数八十三人、称徳天皇はその志の篤さに 葛木首(かつらぎおびと)の姓を与えました。
弟、和気清麻呂が弓削道鏡によって島流しにあった時に 姉である広虫も備後に流されました。

第49代光仁天皇(こうにん)が即位されて、同じ仕事に戻りました。 天皇は広虫のことで「私の臣下は皆、人の短所を言うが 広虫が人の短所を言うのを聞いたことがない」といいました。 広虫の品性が高潔なのがわかります。 この姉がいるから、和気清麻呂が出てくるわけです。 広虫と清麻呂の姉弟は世の兄弟姉妹の鏡です。
広虫はその後、従四位上に進み、典侍(宮中で神鏡を祀る次官) となり、70歳で亡くなりました。

⑤奥貫友山の慈善
奥貫友山は武蔵の川越の人。幕府の儒臣成嶋錦江の門人 青木昆陽、中村蘭林たちと仲が良かった。 寛保二年(1742)関東に大洪水があって、川越近傍は被害が 一番大きかった。 友山は被害者の惨状を見るに耐えかねて 父と相談して家の米倉を開け、困った人には粥を与え 老人・子供には4升ずつの米を与えたので、困った人々が行列 して集まりました。アッっという間に米がなくなったので お金を出して米を買い集め救助しました。さらに田地・家屋敷を 江戸の富豪に質入れして金を借りて救助しました。 友山によって救われたのは48カ村、十万六千人に達しました。 川越公は友山の志に感銘して、衣服と佩刀を与えました。

それより先、幕府は飢えた人々が四方に広がるのを防ぐために 他の村へ出ることを禁じました。 これにより、他所の村の豊かな人々が、お米を分けようとしても 善意を果たせなくなりました。 友山は師の成嶋錦江(1687-1760)を尋ね、幕府の禁止令の 停止を錦江の同意を得て、上申するとすぐに禁止令は 解除になりました。 富者は私財を投じて飢民を救い、餓死を逃れた人々が何万人にも 登りました。 儒学の要を行った訳です。

その後明和年間(1764-1772)には武蔵と上野の2つの国で 飢饉がありました。 貧民が徒党を組んで、金持ちを脅して金を奪い、家を焼いて 乱暴狼藉を働きました。 友山の家にも、狼藉しようとしたところ一人が駆け寄って 「ここは奥貫様の家で、我々の祖父母・兄弟が水害で 生き延びられたのはこの家のおかげだから 決して手をかけてはいけない」と大声で言うと、多数の人たちは 奥貫の門にお辞儀をして立ち去りました。 積善の家に余慶ありとはこの事です。

⑥瓜生岩の救助
瓜生岩(1829-1897)は福島県の人、十七歳で 会津若松の商家に嫁いだが、34歳の時に夫が病死したので 店は人に譲って喜多方にに引っ越しました。
戊辰の役(1868)が起こり会津藩士の家族の多くは喜多方に 逃がれて来ましたが、住む家もなく、食べ物もなく 飢えと寒さに苦しんでいました。 瓜生岩は、この人たちを自分の家に住まわせ、自分の私財を 投じて、有志の人たちと一緒に食べ物や、衣類を供給し 親を亡くした藩士の子弟が浮浪するのを防ぐために 官の許可を得て幼学所を建設して九歳から十三歳までの子供 50数名を集めて読書・習字・算術を学ばせました。
明治六年(1873)自宅に貧児養育所を設け 明治二十年には救育所を開き、貧しい子供たちの 教育に力を尽くしました。 明治二十四年には近くの有志に勧めて各地に育児会を 立ち上げて、貧民の救済や濃尾地震や日清戦争での 貢献が評価されて明治二十九年には藍綬褒章を受けました。
瓜生岩は明治の和気広虫とも言うべき人です。

欧州は口先だけの博愛

宗教的偉人たちは博愛の精神が強い人です。 仏陀、キリスト、皆そうです 孔子やソクラテスは道徳的な人格としての同情心が強く その同情心で義侠的な大きな徳を為さしめています。 博愛心は、人種によって濃淡があります。
最近の欧州人は、口で万国平和を唱え、赤十字社事業を 言いますが、彼らの戦争のやり方を見ていると 敵を虐待することが極端で赤十字社の趣旨が どこにあるのか分からなくなります。

日本人の高い博愛精神

日本国民は、日清・日露の戦争でも、最近の第一次大戦 でも、負傷兵、降伏兵に対して厚遇したことを皆が 認めています。 我が国民は、戦争においても赤十字の主旨を尊重実行する 唯一の国民です。 いちいち博愛などと言わなくても、行為で実行する国民です。 口では博愛を唱える宗教的国民が、それに反した行動をするのと 優劣は明らかでしょう。

人生100年大人の学び

古来から日本人が実行して来た、博愛の精神は、天皇も含め、内容が深い。しかも女性も少なからず貢献している。江戸時代も含めて日本人の民度はずば抜けて高いことがわかる。杉浦重剛師の言うように、日本人は博愛の精神が身についていてすぐ実行できる、世界に誇る資質である。読んでいてまたまた涙してしまった。

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