【日本人と中国人】イザヤ・ベンダサン著 山本七平訳 1996年刊 2005年再刊 祥伝社

「日本人とユダヤ人」の著者イザヤ・ベンダサンの日本人と中国人。書かれたときは1972年−1974年の田中角栄総理による日中国交回復の流れの中で、日本人が「中華思想」と米国の「太平洋地域戦略」の間で振り回された姿を浮かび上がらせる。中国は米国の使い方がうまく、戦前では東条英機に「米国を敵国とする戦争拡大に踏み切らせ」戦後ではニクソン訪中で、田中角栄に「日本の対中外交を再開」させた。【日本人と中国人】では、なぜ日本が中国の思想を取り込み、日本の政治・経済観を築き上げたかをまとめている。

1937年の日支事変が太平洋戦争の開始であるが、当時日本は「満州との国境線」策定を表に出したため、欧米は「国境線が決まれば終結する」と受け取った。
そして、蒋介石との間には、1937年11月「満州の権益を認めれば、満州国からの撤退を保証する」反共日蒋同盟を結ぶ。しかし、日本軍の戦線拡大は歯止めがかからず中国全土へと戦線は広がる。しかも、満州国の独立を「(満州国ではなく)日本が世界に認めよ」と出てくる。そして12月には南京総攻撃という、誰がどうやって命令したかすらわからない攻撃をかける。日本は(双方の合意に至る)手順による結論よりは、市民感情が優先する社会であると山本氏は喝破する。山本氏は、日本に「軍国主義」はなかったと断言する。理由は「軍国主義」は冷徹な彼我の軍事力判断と緻密な計算があるはずなのに、日本にそれはなかったためである。意味不明の「軍国主義」よりもっとレベルの悪い「何か」が戦争に駆り立てていると山本氏は歴史を判断している。大本営は南京総攻撃の許可を与えた、しかし中国政府は日本案を受諾して、政府(広田外相)は天皇に奏上し、近衛首相も停戦を発表する。P.40
しかし、南京総攻撃は開始される。(ここの経緯は歴史的資料も欠けており、検証不能である)そして、一気に戦争ムードが煽り立てられる。南京が陥落するとマスコミは華々しく報道する。先日のドキュメンタリー紹介【WWII:China’s Forgotten War】でも書いたが、当時のマスコミは軍人の「蛮行すら」囃し立てている。(この2名は戦犯として処刑されたが)

WWII:China’s Forgotten Warより

「感情はすべてに優先して進められたのが、日中戦争」P.52
周恩来は「感情に支配されずに、生き続けた」ために中国政府の中枢に長いこと留まれた「日本人と正反対の性格」の人間である。日本人が、振り回されるのも当然である。P.53

そして、時代は秀吉まで遡る。秀吉の晩生の朝鮮出兵が「感情論から発している」と見抜いた家康は、徳川幕府設立後「政教分離」(日中関係)「宗経分理」(対欧米)で動く。オランダ等と貿易は行う。結果的に思想に関しては輸入元は中国だけとなる。P.74 そして明朝の滅亡後、日本に来て水戸藩で学問を教えた大儒学者「朱舜水」。彼が絶大な思想的影響を後世に与える。光圀は湊川の碑を建立した際、「朱舜水」は裏面に碑文を残した。浅見絅斎は「靖献遺言」という「中国思想の殉教者の殉教記録と遺言集」をまとめ、そこで引用された人物は「屈原」「陶淵明」「顔真卿」「諸葛亮」「文天祥」「謝枋得」「劉因」「方考孺」の8名の中国人の記録。P.76
これが当時の「中国思想大ブーム」で囃し立てられる。楠木正成は当時の中国ブームの「寵児」となった。
すなわち、楠公(尊皇思想)は「中国思想」に由来する。P.78

黄門伝説は「権威を批判したご隠居」が「民衆とともに」権力を批判し「楠公建碑」するシナリオになる。日本人は、天皇を含めすべてをこの図式に入れてしまう。P.82 それゆえ、「黄門批判」が許容されず思想的背景の中心人物「朱舜水」は消え去っている。中国思想を日本思想と信ずる根拠がここにある。南朝正統論は、まさしく後醍醐天皇の「独善的親政の失敗」しかし、中国思想をしてのみ合法化できるシナリオ。それが「勅皇思想」P.88

山本氏の解説によれば勤皇の先駆けとなったのは江戸時代の神道系国学者竹内式部であるという。彼は「靖献遺言」勉強会を京都で開いていた。朝廷内公家連を集めて革命の志士を養成するところまで発展した。驚いた「朝廷」(幕府ではない!)はこれを禁止すべく、京都所司代に告発。調べたが、法的問題はなく釈放。1756年。その後、公家連は取り潰され、(公家でなく町人の子である)竹内式部は所司代に単独取り調べを受ける。思想背景は中国思想、間違ったことをしていない、ではあるが所司代は彼を京都から追放する。朝廷が幕府に「勤皇思想」を摘発せよ、と命じる。幕府はその思想背景が「中国思想」であることを知り、絶句する。さわりなき「対処法」で一件落着。「勤皇思想」の背景は中国思想であることが、当時の権威。P.103
明治以降のあらゆる時代の思想背景は「尊皇思想」
「尊王攘夷」「尊中壌英」

日本は歴史的に見て、外交文書では「天皇が前面=神国」である。しかし、国内では天皇は「君臨すれども統治せず」が対中国関係で形作られた。P.122

清朝派日本人:異民族(夷)支配の中国(清朝)に対する反発(朱舜水の明朝派中国人たち)と同じレベルで対中国を考える人々も出てくる。すると、日本は清朝と同じではないか。山鹿素行「中朝事実」がそれを示す。(これは、昭和天皇物語1に、乃木学習院院長が、明治天皇崩御のあと昭和天皇に手渡したとされる書物でもある。乃木院長はその日、自刃する)

清朝派日本人:新井白石のように、中国・ユーラシア大陸の過去の歴史と文化的諸関係と現状とを深く考慮して思慮深く適切に処理できる人。歴史的には、平清盛が最初の日本人。突出していたのが新井白石。P.131

文化的に、圧倒的に中国思想の影響を受けた日本。しかし同種文化でなく別の文化形態が生じて、文化的権威と政治的権力が分立している。そして2つの中国派の代表が足利義満。武家の立場から使えるものは「中国思想」「天皇思想」いずれも良い。ただし、「天皇思想」は「中国思想」の借り物。義満は明朝の意向に合わせ、倭寇取締りを徹底し、明朝から褒美を賜る。(もちろん貿易で多大な利益も上げる)次の義持の時代は対中貿易断絶。その理由は日本からの「刀剣輸出量」が多すぎたため。
続く秀吉の対中国政策は「不可解なこと」ばかり。
しかし、秀吉は「天皇」を表に出して、国内政治秩序を作り上げた。P.165

秀吉にとって、中国討伐は四国、九州平定と同列で考えられた。P.174
そして、中国平定の際は北京に「天皇を送り込む」構想だった。P.177
明の皇女を日本の天皇の妃とするアイデアも持っていた。P.180
理念としての中国絶対視「中朝事実」型中国認識

新井白石の登場「中国を中国としてとらえ、日本を日本としてとらえた最初の日本人」他国・自国の認識なしに外交はありえない。
頼山陽「日本外史」(1892年)皇国史観の元祖
その流れで「天孫論」熊沢蕃山、「犬猿論者」平田篤胤へと続く
そして、明治維新とは「疑似中国化革命」である。P.235
江戸時代は相互の論争を自由闊達に行っていた。P.240

議論の中心の儒者は明治には消えてなくなる。それは、田沼意次の時代、経済再興はできたが、思想的、道徳的背景のなかった時代。幕府は凋落へ(田中角栄、列島改造論Pを暗示).253

琉球問題の勃発。米国グラント大統領の仲介(1880)
征韓論:西郷の主観的「革命輸出」
明治天皇は調整役に三条実美を引っ張り出す(天皇主権の確立)
西郷型天皇主権の終焉。

戦前の右翼思想の背景「尊皇討奸」(対左翼でななかった)
2.26事件、磯辺浅一の天皇の意思誤認(自らの内なる天皇中心説)
内なる天皇を外なる天皇に求めたのが2.26事件
同じことが、対中国政策でも起こっている。
日支事変もその一つ。P.284
中国や、天皇に対する思い込み(内なる)と、客観的事実把握(外なる)ができない日本人。P.290
周辺文化が一度は通過する「中朝事実」的考え方、「日本こそ”真の”中国」P.292

山本七平氏の著作は、読み返す度に発見がある。人生100年時代の学びが、発見の連続であることに気がついたのは、継続的な山本氏に対する定点観測のおかげだろう。「日本人とユダヤ人」に見られる山本氏のユニークな「日本人への視点」は、私の人生で常に頭の片隅に置かれていた。ラッキーと言うほかない。

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