【田中角栄の時代】2016年刊 旧題【御時世の研究】山本七平著 1986年刊 田中角栄の登場と退場の研究

私が田中角栄に関して知りたかったことは2つ。一つは、何故あれだけの人気政治家になれたのかという点と、若くから田中角栄の秘書となった高校の同窓生、故鳩山邦夫が権力の座につけなかったのかである。著作から読み取れば前者の答えは見えてくるし、おのずと後者の答えも出てくると期待して読んだ。

まず、田中角栄は「地元民=選挙地盤の有権者」への利益誘導に「助成金」という公認ルートを使ったということ。明治以降、薩長政権が続き、両県とも「暖国」であるがゆえ、雪国の新潟への配慮が少なかったこともあり田中角栄はそれをテコに補助金政策を活用し、地元で実績を上げる。
地元からの陳情で「運動資金」が献上されると、受け取った上で開封し、それを持参した人に1割程度戻した。
(私が昔読んだ本には、私邸に訪ねてきた新聞記者にも取材後、ご苦労さんと言って「現金封筒」が渡されたと書いてあった)

田中角栄は、官僚システムの「遅い」「杓子定規」に対して「よっしゃ」「わかった」と新しいプロジェクトを立ち上げる。上越新幹線、関越道などである。地元のニーズに関しては、嗅覚も効く政治家であった。しかし、元となるアイデアは他人からの借り物ばかりであった。コンピュータ付きブルトーザと言われたが、馬力はあるがそれを走らせるソフトウエアを持ち合わせていなかった。それゆえ、首相になっても、すべて案件は一旦「地元の尺度に合わせて考え」国策とする発想になった。すなわち、当時の技術である重厚長大の延長でしか発想できていない。政治家と言うよりは政略家で、「足元の権力」の維持には長ける。長期的なビジジョンとかは打ち出せないタイプだとする。それゆえ、全く実績のない政権であったと山本氏はいい切る。最終的にロッキード事件の収賄容疑で「逮捕」「収監」される。1974年12月に退陣する。

山本氏は、田中内閣発足当時と、退陣近くの新聞の論調を当時の記事を引用しながら考察を進める。
発足当時:ベタ褒め記事ばかり。人生でベタ褒めされるのは「弔事の時」であるとして、山本氏はこの時点で「死に体」だったと断言する。P.196
そして、戦後の内閣の歴史を振り返って首相の座で興味ある人物は「三木武吉」と「池田勇人」であるという。「三木武吉」は権力維持のための政略家に徹し実際政権の基盤をしっかり支えた。「池田勇人」は人気こそ無かったが、日本の将来の問題と、あるべき姿の乖離を埋めるべく「所得倍増」「農業振興策」などを打ち出す。しかし、マスコミには無視される。当時のマスコミの「上から目線での政治家への要望記事」が引用されているが、これがプロの仕事かと思われるような幼稚な中味である。P.204〜

その意味で、田中角栄も鈴木善幸もブレーンを持たなかったがゆえ、長期的な展望の政策提言は出なかった。田中角栄は官僚機構を操縦するのがうまく、個人を名指しで仕事させることもあった。しかし官僚はあくまでも政策的にはラインの仕事であり、将来ビジョンには使えない。その人達からの借り物で「日本列島改造論」は作られた。(田中角栄自身が読んだことがない、という発言が残っている)

私の若い時代に一世を風靡した政治家であった田中角栄について、山本氏の視点は私には新しかった。首相になってからも「一旦地元の発想に戻って」という部分は私の高校の同窓生故鳩山邦夫にとっては、学べる内容ではなかったに違いない。その謎も解けた。それと、マスコミが「表面的な事柄」でけ追いかけて「ムード」で動いているところも浮かび上がってくる。まさに「空気支配」である。今でも我々は心しなければいけない部分である。

人とのご縁は重要であるが、利益ありきでのお付き合いは続かない。時代というものは、容赦ないものであるが、過去をきっちりと学ぶことは今を生きる上でも重要である。
改めて、人生100年時代の学びとは、過去に経験したことを学び直すことでもあると認識した次第。

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