【帝王学「倫理」23「蒔かぬ種は生えぬ」】杉浦重剛著 「倫理」より[YouTube]善因には善果があり、悪因には悪果があります 勤勉で徳のある人は栄えて 怠惰で不徳なものは衰えて危険です。 人生の浮き沈みや、国の興亡はこの理屈です。

秋になりました。田圃には稲が実り、農家は収穫しています 考えてみれば、これは春に種まきをして、田植えをして 苦労の結果にできたことです。 世の中のことは、全て労働しないで得られるものはありません 諺に「蒔かぬ種は生えぬ」の通りです 菊の花も同様でこの花の美しさは、この花を育てる苦労と 一緒なのです 。
「菊さいて 今日までの世話 忘れけり」(素園)
ですから、善因善果、悪因悪果という因果応報は 自然の摂理なのです。

学問をすれば学問に詳しくなり 技術を学べば技術に詳しくなり 学ぶことなく成果だけを期待することは不可能です。 ですから、人はそれぞれの職業に応じて一生懸命に 農夫は農業、学者は学術、官吏は役所仕事に全力で 勤め上げることが必要です。 とりわけ、国の帝王として数千萬の人々を統率される方は 大変なご苦労があるのは言うまでもありません。

昔から名君と言われる人は、一生懸命政治に励み 恵を施して徳を広めました。 それで国が豊かで、人々が平和に暮せます。 教育勅語で天皇の祖先の徳を取り上げたのは 我が国の精神の素晴らしさなのです。 神武天皇が東征された時に我が国の体制ができた わけでその時の大変なご苦労は申し上げるまでも ありません 。ご即位された後も常に国の政に心を配り 十二年六月に日向にお出かけになり祖先の お墓などを参拝し、三十一年四月には大和国を お巡りになり、国の様子を視察されました 。その仕事に励む姿勢が目に浮かびます。

神武天皇の数代後の間は史実が欠けているのですが、崇神天皇になりまして、神を敬い、民を愛する姿が 記録に残っております。 崇神天皇の五年に疫病が流行りました 六年には農民が逃げ出しました。 天皇はこれをひどく心配されて多くの神々をお祭りしました。 七年には詔を出されて 「祖先が国をお作りになってから発展してきたが 私の世になって災害が起こるようになった これは私に善政が欠けていて、神々が罰を与えている」 ここで、神浅茅ケ原にお出かけになり、占いました。 さらに、四道将軍を派遣して武威を示し、船や車両を作り 水路を掘り利用させたのは政の美談でした。

崇神天皇の子の垂仁天皇は神を愛され、臣民を大事にしていました。
また、農業を奨励され、溝を八百も掘りました これは、帝の御心遣いの成果です。
その後の、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇 とりわけ仁徳天皇は人々を励ましながら 国を豊かにして行ったことは特筆すべきことです。
このように見てゆきますと、我が皇室の歴史は 人々を大事にして、生産の奨励を行ってきた歴史です。

さらに例を追加しますと、元正天皇は養老五年の詔で 「私は徳がなく、人々をどう導いて良いかわからないので 朝は早くから考え、夜は床について思いを巡らす。 体は宮廷にあるが心は庶民と一緒のところにある。 あなた方家臣に任せなければ、国はまとめられません。 重要なことは必ず、私に相談してください。 そして、私の前では良いと言いながら 裏で反対のことを言わないでいただきたい」 「昨年、旱魃と水害で秋の収穫ができませんでした。 皆苦労して、私も申し訳なくて少しも休みませんでした」 このように、天皇が細かな心遣いをして 熱心に政治をされていたことがわかります。

後三条天皇も、厳しくしっかりと政治をされました。 それで世間がゆったりして安定がひろがり 人々は穏やかになりました。 このあと、後醍醐天皇が討幕と親政にご苦労されたことは 顕著な事例でもあります。

武家の場合を考えてみますと 源頼義、義家の親子が前九年・後三年の役に 非常事態として参戦したばかりでなく 義家以後の源氏の大将は常に倹約に励み 武力の訓練を怠らなかったので 後に頼朝が幕府を開くことにつながった。

北条氏の場合は、泰時、時頼たちは人々を大切に慈しみ そして頼朝時代の前九年・後三年の役を怠らなかった 臣下でありながら、天下の権力を掌握して百年以上 続いたが、後世の執権が家の伝統を無視して 安楽で贅沢を始めたので最後滅びました 滅びた理由は明らかです。

徳川家の場合も、最初の二・三代は倹約・武力訓練を 進んんでやり幕府の基礎を固めました。 しかし、贅沢で緩んできて衰退の兆しが現れました 藤堂高虎が、二代将軍徳川秀忠に面会して言いました 「殿様は五十歳になられました、少しお仕事を減らしたら いかがですか」秀忠は答えました 「あなた方が仕事を減らすのは問題ない しかし、私は最高権力者の地位にいて皆が仰ぎ見ている 朝から晩まで戦場のようだが死ねば終わる話だ どうして仕事を減らすのだ」高虎は感服しました。 秀忠が政治に熱心なのは、寝ていても政治の話に 耳を傾けたことである。
三代将軍・家光は仕事のしすぎを心配して家臣に 夜、話をしないように言いつけた。 しかし秀忠はそれを聞いて 「私は一日中政治のことを聞いていないと安心できない。 しかも、私は一国の宰相でもあるので 死んで政治を聞くことができなくなっても それは私の願うところである」 と言いました。

池田輝政の人物は、落ち着いて欲が少なく いつもこう言っていました 「私はたまたま三国を領有している しかし、これだけでお役に立てることはない もしも国に一大事が起これば真っ先に駆けつける」 「領主の仕事は、武士を養い、人々を慈しむことである 平和なら領地の塀になるし、戦いなら兵隊となる。 このことが重要です。 仕事が忙しいのは私のためではありません」 珍しいものや装飾品は避けて仕事に励みました。

池田光政は新しく設備を作るときには 目先の利益を求めませんでした。 城は小さく、倹約に勤め、粗食にして 城門に蓋つきの大きな箱を置いて、庶民の提案書を 受け付けました。 百二十通届いて、役人に審議させて、そのうちの三十数件を 実行しました。

寺沢廣高は肥前唐津の領主でした。 ここは水田が少なく、人々は麦を食べていました。 廣高も麦を食べ綿の着物でした。 これで、国の上から下まで生活様式が良くなりました。
廣高は昔のいい武将の気風がありました。 朝早く出勤してまず、政治関連を聞き そのあと、馬場で馬を調教して朝食をとり 槍と剣を稽古します 冬は臣下たちを従えて弓矢の訓練 夏は銃や大砲の講義の後、水泳をして 家臣とともに苦労を分かち合ったと言います。

では、外国の事例をお話しします。 禹王はかつて虞(ぐ)王舜の命令で治水事業を命じられ 考え、動き回り十三年間家に帰らず開拓に勤めました。 ようやく、九の開拓地と九の水路を完成させて 人々を救うことができました。
舜はその功績で禹に王位を譲りました。
禹は王位についても勤勉で人々を慈しみました。
ある時、儀狄(ぎてき)と言う人がはじめて酒を作りました 禹はこれを飲んでおいしいと言って 「これは、後の世には国を滅ぼすものだ」 そう言って儀狄を追放しました。 禹王の政治に対する勤勉さと考え深さを見ることができます

唐の太宗が政治に一生懸命だったのは 言うまでもありませんが、貞観の治はその成果です。 玄宗皇帝も、はじめは豪華な衣装を燃やして贅沢を戒め 正直で質素な人を登用しました。
こんな話があります。 玄宗の二十一年目に韓休を宰相にしました 韓休は厳格で真っ直ぐな人物でした。 玄宗は気晴らしやちょっとした間違いがあると 「これは韓休は知っているか」と聞かれます。 まわりが「韓休が宰相になって玄宗帝はめっきりお痩せになった」 帝は「私が痩せても人民が豊かになればいい」 これは、玄宗がひそかに人を活用した例です。
ですから、開元の治は貞観(じょうがん)の治と 同じように輝かしいものです。 しかし、気を緩ませて贅沢に流れると 安史の乱が発生して、国は大混乱になります。

良いこと悪いこと、繁栄と衰退はこのように 明らかなことなのです

西洋の例を挙げます。 ロシアのピーター大帝は自国の産業を興隆させるために 自らが造船所の職工になったことは極端な例です 。
プロシャのフレデリック・ウイリアム一世が 倹約と武力奨励を実行して その子フレデリック大王が欧州で活躍する基盤を作りました。

このように、善因には善果があり悪因には悪果があります。 勤勉で徳のある人は栄えて 怠惰で不徳なものは衰えて危険です。 人生の浮き沈みや、国の興亡はこの理屈です。
昔の言葉があります 「積善の家に余慶あり」と

我が国の皇室は百二十二代が連綿と続いています 常に人々を慈しみ、政治を行って二千五百七十五年になります。 その結果が今の、日本帝国です。
国が興隆する深い根本をお考えください

人生100年大人の学び

良い結果を出すためには、事前の準備が必要である。結果とはここでは「善政」である。日本のTopたちが色々苦心してきたところが引用されて印象深い。天皇家だけでなく、武士社会での「善政」も興味深い。心を合わせて良い国家を作ろうとする考え方とそのための行動には、力強さを感じる。

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