今夜は、九月の十三夜ですので月が綺麗でしょう。 天正二年九月、上杉謙信が七尾城を攻め落として二日目に ちょうど十三夜になりました。 武将を集め陣で酒を置いて「霜は軍営に満ちて秋気清」 と詩を詠んで感慨にふけたのです。 この風習が世に広まったのです。
戦国の世には、いろいろなところから豪傑が現れ 互いに智勇を戦わせ、その能力を発揮させましたが 上杉謙信ほど武略に傑出し、人情に厚い武士は 他にいません。 謙信は長尾景虎といいます 鎌倉権五郎景政につながる平家です。 権五郎景政は、昔、源義家に仕えて前九年の役で 勇敢に戦い、武名を関東に轟かせました。 景政の後継に影弘がいます。相模の長尾が領地なので 長尾二郎と言いました。 いわゆる関東の八平氏の一人でした 後世になって、長尾為景が越後を領地としました その四男が謙信です。
謙信は子供の頃からエンエルギッシュで戦略家でした。 十三歳の頃、一家の事情で十四人の従者を連れて僧の姿で 諸国を回った。 まず、米山に登って管轄内を見ると 「私は将来、兵を集めて国を取り戻す その時はここに陣を置く」と言いました。 志が大きいことが伺えます そして、父為景が騙し討ちをされた栴檀野に来ました。 「私は必ず、仇敵を滅ぼして、父の魂を慰霊します」 そして、北陸の国々をまわり、山、川、城、地形を見て 図面を描いて持ち帰りました。 これが子供の頃の謙信で、孝心が深く、志気が高いのです
謙信は大人になり越後を領有する。 兵を加賀、能登に出し、父のために越中で弔い合戦をし 近隣に圧力をかける。 その時、信濃の村上義清、高梨政頼らが武田信玄に追われて 謙信のところに投降して助けを求めた。 「我々は武田信玄のために領地を追い出され、行く場所がない 謙信公の名前を知っていたので一緒に戦ってください」
謙信は「あなた方は、人の上に立つ人だ 私は領内の乱をほぼ平定し、加賀と越中と弔い合戦中である。 これをやっつけて京に報告するのが私の願いだ。 しかし、私を知っている人が来て力を出さないのは 立派な男ではない」これが川中島の原因です
それから後、上杉憲政が北条氏政に負けて 謙信に投降しいいました。 「我が家は十二代関東を領有していましたが 氏政に負けてしまいました 近くで知り合いはあなたと晴信ですが 晴信は氏康と仲がいい ですから、あなたのところに来たのです 私のために、戦ってくれますか?」 当時、謙信は信濃には興味がなかったし 加賀越中とは交戦中でしたが 憲政に同情して助け、氏政と戦うこととなった。 この時、上杉謙信と名乗った このように、謙信が武田信玄、北条氏康の 二大強敵を相手に、毎年大戦争をしたのは 村上義清や上杉政憲のような、負けた弱者を救い 強者を負かせるということで 人情がなせる技で、最も高潔な心と言える
その後、武田信玄は今川氏真、北条氏康と 戦うことがあった 。信玄の領土は海に面していない、塩は静岡方面から 送っていたので、氏真、氏康は塩を密かに止めた。 それで甲斐の武田軍は大いに困った 謙信はこれを聞いて、信玄に手紙を送り言った 「氏真、氏康は塩が遮断するのは、勇気もなく正義もない あなたとは武器では戦っているが、米・塩ではない 私のところから好きなだけ塩を持ってゆきなさい」 商人に命じて安く甲州に送りました。
謙信の性格が、度量があっさりして 懐が深いことがわかります。
武田信玄が死んだ時、北条氏政が謙信に遣いを出して 知らせた。 謙信は食事中であった。箸を投げ捨てて 「好敵手を失った、こんな優れた男がいるだろうか」 と涙を流したと言う。 そして、信玄の息子勝頼が、長篠の戦いで 織田信長に負けたとき、越後の武将たちは 「甲斐が負けました、ここで攻め込んでは」と言うと 謙信は聞き入れずに言いました 「私は信玄と戦って甲斐は取れなかった子供を侮って 負けたところで乗っ取れば天下になんと言うのだ」 彼は公明正大で北越後で堂々としているのを見るべきです。
永禄二年五月に謙信は京都に上り皇居で拝謁しました。 正親町天皇(おうぎまち)の時代でした 謙信は天皇に拝謁し 酒と五虎(ごこ)という剣を授かりました。 そして、将軍 足利義輝にもお会いしました 義輝は謙信を関東管領に任命し、自分の名前を 入れた輝虎という名前を与えました。
当時は国中が戦乱で、武田信玄や北条氏康のような 大豪族でも京都には出かける余裕はなかった 謙信だけが、上洛できたのは 公のためという心があったためである。 だから天皇も酒を下賜された。 とてもいい話である。
武田信玄の死後、織田信長は謙信が進出してくるのに 神経を尖らせ、安土城を築いて居城とした。 謙信は北陸、関東の武士を集めて近畿方面に出陣しようと 軍勢の閲兵を行なった。二日後に病死した 謙信の武略はお話しした通りですが、経済については 開拓の奨励、佐渡の金山開発などの功績もあります。
謙信の後は景勝が継いで、武略に優れて北方面の重鎮でした。 秀吉は景勝を会津百二十万石に処遇しました。 秀吉の死後、関ヶ原の戦いがあり、景勝は三成側だったので 会津の領地は取り上げられ、米沢三十万石になります (この後、吉良の件で十五万石に減らされます)
景勝から数代後に治憲の代になります。 日頃から学問が好きで、細井徳民、瀧長愷(ちょうがい) 渋井孝徳らをお迎えして講義を聞いていました。 そして、城下に興譲館と言う学校を設立し 優秀な二十人を先生にして子供たちを教育し さらに優れた十人を地元に戻して、教育をさせた。
人々は自然と農作に励み、親孝行になり 犯罪がなくなり牢屋は空になったと言います このように、学問を勧めて教えを広めると同時に 農業も奨励しました 実際一町の田を自分で耕し、臣下にもやらせました それですから、農民も農作業に努めて領内は豊かになりました 天明五年に名前を鷹山としました 文政五年三月に亡くなりました 享年七十二歳でした
備前岡山の藩主、池田光政 肥後熊本の藩主細川重賢(しげかた) と並んで立派な領主でした。
謙信が正しく潔い性格で、信義を重んじて とても人情が厚かった 景勝はその心を受け継ぎ、武に優れていた 治憲は家を再興して、慈しみの政治を行なった 上杉氏が今も華族になって繋がっているのは 先人たちの善行があったおかげなのです。
人生100年大人の学び
杉浦重剛氏のこの講義で、Yozanとして知られる上杉鷹山と、謙信のつながりが明確になった。父親が新潟とつながりがあるので、事例が目に浮かぶものもあり、読んでいて楽しかった。先代たちのおかげで今の私があると言うことも納得できる話だ。これからは、つながりが中心の社会になる可能性が強いと思った。