「論語讀の論語知らず」は「いろは加留多」にある言葉です。 この諺の意味を考えてみますと 論語はよく読んでいても その意味がわかる人が少ない。 その意味が分かっても 実行する人がほとんどいない、ということです。
論語は支那の聖人、孔子の言行を記録したもので 政治と道徳の手本であり、支那人はもちろん 日本人も尊敬している書物です。
学ぶ人で、これを読まない人はいないのです。
程子はいいました 「論語を読んではみたが、難しいということがわかった」 これでは、表面上は理解できても本当の意味はわからないし さらに実行しなかったら、もっと難しい 。
「論語を読んでも、実行しなければ 読まなかった人と同じです」とも言っています。 言い換えると、聖賢の書を読んでも、これを実行する人が 少ないことを嘆いているのです。
島津某の歌に 「古の 道を聞きても 唱えても 身の行いにせずば 甲斐なし」 というのと同じです。
我が国、応神天皇の十六年、百済から王仁が来ました。 論語、千字文一巻を持ってきました。
皇太子の稚郎子(わかいらつこ)は昔、百済の阿直岐(あじき) に経書を学びましたが、今回 王仁を先生として 学ぶことができて、大変深く理解されました。
後年、応神天皇が亡くなると後継ぎを 長兄大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)に譲って 天皇にはならずにいたのですが、長兄も譲り合ってとうとう 稚郎子は自殺してしまいます。
このことは、長幼の序列を実行されたという美談です。
仁徳天皇、天智天皇、後三条天皇も学問を好み それを実行したという事例が実際あります。
後光明(ごこうみょう)天皇は朱子学を学ばれました。 「思い込みの性質は直しにくいが実行して捨て去る」 という言葉を好まれて、学び方を工夫して実行しました。
天皇は生まれつき、雷を怖がっていました。 これが「思い込みの性質」だと、一日中雷が鳴る日に 御所から出て、天を仰いで正座されました。 いつもの平静なご様子で、それ以後雷を怖がりませんでした。
徳川義直は、聖人の教えを尊び、書物は千部以上 書庫、先聖殿を建てて奉りました。 さらに、きちんと聖人の教えを実行しました。
部屋に、次のような書物を掛けました 「世の中は父母がなければ始まらない 兄弟はかけがえがない」
ある時、家老の寺尾土佐が、紀州徳川家の悪口を 申し上げたところ、義直は返事をせずに 掛けた言葉を見せました。 土佐は、赤面して退出しました。
加藤清正は晩年学問に親しみ、いつも「論語」を 持ち歩き、旅行中も四書の話を聴きました。
ある時、人に言いました 「前田利家は、晩年学問を始めて、秀吉公が亡くなると 私たち、数名を集めて、ゆっくりとお話になった 『重大事の時に、君子人であることが大切だ』と 当時の私は、学んでいなかったので 何のことかわからなかった 最近、論語を繰り返して読むようになって 初めてその意味が分かった 今、この言葉を実行しなければ不義になる」
清正が秀頼に忠節を誓ったのは偶然ではありません。
学者としては、中江藤樹が実践者として 飛び抜けています。藤樹は近江出身です 十一歳で大学を読み、言いました 「学んで聖人の域に達しなければ意味がない」 そして、発奮して猛烈に学問をしました。 かつて、伊予の大洲の加藤泰興に仕えました 母が郷里にいたので、仕官を辞退したが許されずに 結局、逃げて郷里に帰りました。
大洲を去るにあたり、蓄えを同僚たちに分け与えて 近江に着いた時には銭三百でした 従者に銭二百を渡して、残り百です 仕方なく、刀を売って銀十枚を得て、米を買って 母を養いました。
当時、大野了佐(りょうさ)という人がいました。 藤樹について学問をしました。 藤樹は、了佐に1ヶ月で二百の言葉を教えましたが 了佐はすぐに忘れ、また来て学び百回繰り返して やっと覚えました。
藤樹のたゆまず人を教るやり方です ですから、その地方の人々には藤樹の徳が行き渡り 藤樹は近江聖人と呼ばれました。
支那の事例を探しますと 戦国時代、趙(ちょう)に趙奢(ちょうしゃ)という 名将がいました。その子は趙括(ちょうかつ) 趙括は子供の時から兵法を学び 自慢して「私に勝てる奴はいない」と言いました。 ある時、父と兵談をしました 父は趙括を非難しませんでしたが、同意しませんでした。 趙括の母はその理由を尋ねました。趙奢は 「兵は死ぬ覚悟でゆくものだ。もし趙括が大将になったら 趙は負ける」と言いました。
その後、趙奢は死んで、勇将廉頗(れんぱ)が継ぎました。
秦の白起(はくき)王齕(おうこつ)が趙を攻めました。 廉頗(れんぱ)は長平に陣を置き、城壁を作り防備しました。秦軍は進むことができませんでした。
そこで、秦はスパイを送り込んで「秦は、趙奢(ちょうしゃ)の子、趙括(ちょうかつ)が大将になることを恐れている」と言わせました。趙王は廉頗(れんぱ)を趙括に替えようとしました。趙括の母は、王に「趙括を使ってはいけない」ことを手紙で伝えましたが、王は聞き入れませんでした。
藺相如(りんしょうじょ)も「趙括は父の本を沢山読んだだけです。現場との違いを知りません」と諫めましたが王は聞き入れず趙括を大将にしました。
結局、趙括は白起に敗北、自分は矢に当たって死にました。兵士四十万人は皆埋められて殺されました。
孔子の弟子に、子路という俊才がいました。 勇気に溢れて決断する性格でした。論語には 「子路は、実行しない教えを聞くことは恐れ多い」 と言って、教えを実行することの重要さを言っています。
また「子貢が孔子に君子とはどういう人ですか、と尋ねると 「言う前に実行して、その後、言う人である」と言いました。 孔子が実行重んじた人であることがわかります。
また「君子は言うことは遅れてもいいが 実行は早くなければならない」とあります 實践するために学ぶという学問の本質がこれです。
最後に、一言申し上げます。
孔子の生まれた支那は 孔子の教えを実行しなかったので 今日の混乱状態です。 欧州各国はキリスト教を信じていますが その教えを実行しなかったので 現在の大戦になりました。
失敗例として学ぶべきです。
人生100年大人の学び
最後の一言で、素晴らしい帝王学だとわかります。
「孔子の生まれた支那は 孔子の教えを実行しなかったので 今日の混乱状態です。 欧州各国はキリスト教を信じていますが その教えを実行しなかったので 現在の大戦になりました。失敗例として学ぶべきです」
歴史は、多面的に学ぶべきなのですね