[私の学び]
1.杉浦重剛が昭和天皇に「創業と守成いずれが難きや」と問いかけて、昭和天皇(明治から3代目)の治世の難しさを教えられた。まさしく貞観政要を使った「帝王学」を教えられた。
2.山本七平氏は塩野七生氏の著書「コンスタンチノープルの陥落」に関する対談で「その国の興隆を導いた要因が裏目に出ると、それがそのままその国を滅ぼす原因となる」と山本氏が話したら、塩野氏は「その通り、それが和だ!」と指摘した。
3.唐の治世が良かったのは、周りに「直言する臣」がいて皇帝も聞く耳を持った。特に注目を引くのは、戦いで破った敵でも優れた忠臣を、採用したこと。
歴史的には、ダビデ王の悪行を徹底的に糾弾した預言者ナタンが、ダビデ王の後継者ソロモンの後見人に指名されたとか、ローマ帝国のアウグストスとヘロデ王の関係もそうである。
4.上は下の声を素直に聞くべし
渋沢栄一は、庶民と話す時になんでも聞き、必ずそれを筆記させたという。
5.そして、現在の日本の忖度政治が、国を滅ぼす原因だと言及している。
貞観政要(じょうがんせいよう)は中国の貞観の治:唐 太宗―(高宗)(中宗)(睿宗)―中宗の時代の理想的な統治時代の背景をきちんとまとめた書籍である。
治世が290年と長く、よい政治が行われた時代を背景にしているので、アジア諸国では広く読まれた。
貞観政要は呉竸が編纂、桓武天皇の頃800AC、日本に入った。
北条政子、徳川家康(1593年に藤原惺窩(せいか)から学んだ)が熱心に学んだ
経営者が身につけていなければならない資質:品性(P .ドラッカー)
権力を3年握れば誰でもバカになる。(通俗史家ウエルズ)
権力の固定は 阿諛追従の徒を生む
民主主義は一人一人が君主として考えなければ成り立たない。
唐の成立
隋の煬帝(ようだい)外征、大運河、大宮殿、長城で浪費し人民に重税を課した。617年首都長安から逃げて江都で堕落した生活を送る。長安では食料欠乏で餓死者発生。そこで、近衛兵の反乱で煬帝は殺される。
618年 唐 煬帝の子恭帝は李淵に禅譲
李淵の次男 世民が太宗となる 律令体制確立
房玄齢(決断の人)、杜如晦(緻密な思考)による体制確立
兄弟争いで世民は兄と弟を討ち、その後自分を裏切った、兄と弟の忠臣を諫議大夫として採用する。
偏りなく下からの声を聴け
太宗の時代、意見の応酬が率直で上は「偏信」をすて「兼聴」していた。
渋沢栄一は、庶民と話す時になんでも聞き、必ずそれを筆記させたという。
「十思」「九徳」
創業と守成いずれが難きや
房玄齢は創業
魏徴は守成
と答える
どちらも異なる理由で難しい
創業から守成に移るには、適材(とりわけ創業に功のあった人々)の入れ替えを行う必要がある。
上からの忖度が国を滅ぼす
「一役人の小さな感情を害することを嫌がって、たちまち万人の弊害を招く。これこそ、まさに亡国の政治である。」P .58
「和」が国を滅ぼす 塩野七生
この件で、塩野七生氏とのコンスタンチノープルの陥落での対話で「その国の興隆を導いた要因が裏目に出ると、それがそのままその国を滅ぼす原因となる」と話したら、塩野氏は「その通り、それが和だ!」と指摘した。
組織内の和が国を滅ぼす 山本七平
山本氏はその要素を「軍部内の和を乱すまい」に見出す。
国の存亡がかかっていても和が優先する。
「それでは部下がおさまりません」で開戦が行われたと東條英機は東京裁判で述べた。
TOPはなんでもできるという全能感を捨てろ
六正・六邪 人材を見分ける基本
六正 正しい取り巻き
「聖臣」:兆しがまだ動かず、兆候もまだ明確ではないのに、そこに明らかに存亡の危機を見て、それを未然に封じて、主人を、超然として尊栄の地位に立たせる
「良臣」:「忠臣」「智臣」「貞臣」「直臣」
六邪 ダメにする取り巻き
「見臣」「諛ゆ臣」「姦臣」「讒ざん臣」「賊臣」「亡国の臣」
実需:虚栄心を捨てる
質素の尊重
賢者の登用があった
好き嫌いで取り巻きを作る今
縁故・情実人事を排すべし
ユダヤ人と中国人
中国人とユダヤ人は持続性ある文化を持ち得た。
伝統的な絶対的規範のある社会は、どのように崩れてもまた持ち直す復元力がある。
太宗の子供はダメな子だった
優秀な人材に後を継がせた。
649年53歳で太宗は亡くなる。
「これより以後、各人の誠を悉(つ)くせ。もし是非あらば直言して隠すことなかれ。」
人生100年大人の学びで、私の過去に読んだほんの再読をしてみたら、昔は意味不明だったところが、クリアになっている。ヘロデ王、預言者ナタンなどこの本を買った当時にはわからなかった人名。今ではそれがわかる。
よい本は、時代を通して読む価値があることがわかったのも気づきであった。