【超限戦】21世紀の「新しい戦争」喬良・王湘穂著 劉琦訳 2001年初刊 2020年電子版刊 孫子の兵法を現代に当てはめた著作。 歴史を学ぶことの重要性がよくわかる。学ばない国は飲み込まれる。現在はさらにAI化が進んでいるが

歴史から俯瞰する

最近読んだ本は、ハラリのサピエンス全史、ファーガソンのスクエア・アンド・タワーなど、歴史的事実の積み上げで検証し、未来を語る。

この「超限戦」もまさしく「孫子」の生まれた地、中国で書かれた。
孫子は、「武力戦争は避けるべき、どうしても避けられないならやむを得ないが」ということで、武力戦争に至るまでに、外交を含めたあらゆる方法で敵を弱体化させろと説いている。

歴史を見れば、スパイによる情報収集、内政混乱、プロパガンダなど最近でも手を変え品を変え、いろいろなことが行われている。

まとめると、以下のようなカテゴリーになるようだが、これはいくらでも作れる。そして既に世界の覇権国を狙う国々はスタートしている。

超限戦のカテゴリー

著者前書きから

新しいテロリズムは二一世紀の初頭、人類社会の安全にとって主要な脅威となるだろう。その特徴は、戦術レベルの行動をもって当事国に戦略レベルの打撃を与え、震撼させることだ。私たちは本の中で、「ビンラディン式のテロリズムの出現は、いかなる国家の力であれ、それがどんなに強大でも、ルールのないゲームで有利な立場を占めるのは難しいという印象を世間の人に強く与えた」と述べた。
また私たちは、「彼らは行動が秘密なために隠蔽性が強く、行為が極端なために広範囲の危害をもたらし、無差別に一般人を攻撃することによって、その異常さ・残忍さを示している。これらはすべて現代のメディアを通じてリアルタイムに、連続的に、高い視聴率で宣伝され、その恐怖の効果を大いに増幅する」という点をとくに指摘した。

しかも私たちが予言した方式──非職業軍人が、非通常兵器を使って、罪のない市民に対して、非軍事的意義を持つ戦場で、軍事領域の境界や限度を超えた戦争を行う──でやってきたのだ。これこそまさに「超限戦」なのである。

「もしすべてのテロリストが自分の行動を爆破、誘拐、暗殺、ハイジャックといった伝統的なやり口に限定しているならば、まだまだ最も恐ろしい事態にはならない。本当に人々を恐怖に陥れるのは、テロリストと、スーパー兵器になりうる各種のハイテクとの出会いだ」  つまり、ビンラディン式のテロリズムのほかにも、われわれは、ハッカー組織が仕掛けるネットテロや金融投機家たちが引き起こす金融テロなど、その他のさまざまなテロリズムに直面するだろうということだ。こうしたテロリストは、ハイテクがもたらした便利さを十分に利用して、彼らの手の届くいかなるところをも、血なまぐさい、あるいはそれほど血なまぐさくない戦場に変えることができるのである。ただ一点変わらないのは、恐怖である。しかもそれは神出鬼没で、忽然として形のない恐怖である。どの国もこのようなテロに対して、いちいちそれを防ぎようがない。

しかし、たとえわれわれが、これは戦争だとわかっていても、こうした戦争の発生を避けることは依然として不可能だ。なぜなら、これはすべての戦争の中で最も不確定な戦争であり、確定した敵も、確定した戦場も、確定した兵器もなく、すべてが不確定だからである。このために、常々確定した方式で敵を打撃するのに慣れている、いかなる軍事行動も、「虎が天を食べようとしても口に入れようがない」式の手のつけられない状況に直面することになろう。

例えば、ジョージ・ソロスらが東南アジアの金融に与えた攻撃、ウサマ・ビンラディンがアメリカ大使館に対して行った恐るべき襲撃(一九九八年)、オウム真理教信者が東京の地下鉄で撒いた毒ガス、モーリス・ジュニアらによるインターネットの攪乱は、その破壊力では戦争に見劣りしない。間違いなく準戦争、類似戦争、第二種戦争が誕生したのである。  それにいかなる名前をつけようと、われわれは以前よりも楽観的にはなれない。楽観できるはずがないのだ。正真正銘の戦争の役割が小さくなったとはいえ、それは戦争の終焉を意味しているわけではない。われわれはいわゆるポストモダン、ポスト工業化の時代に生きている。しかし、戦争の構造は完全に解体されたわけではなく、より複雑で広く、より隠蔽された微妙な形で新たに人類社会に侵入してきたのである。バイロンがシェリーを追悼する詩で語るように、「何も起きてはいない、蜃気楼を見たにすぎない」。 現代技術と市場経済体制によって変わりつつある戦争は、戦争らしくない戦争のスタイルで展開されるだろう。言い換えれば、軍事的暴力が相対的に減少する一方で、政治的暴力、経済的暴力、技術的暴力が増大していくに違いない。しかし、いかなる形の暴力であれ、戦争は戦争である。もし新しい戦争の原理が、「武力的手段を用いて自分の意志を敵に強制的に受け入れさせる」ものではなくなっなくなって、代わりに「武力と非武力、軍事と非軍事、殺傷と非殺傷を含むすべての手段を用いて、自分の利益を敵に強制的に受け入れさせる」ものになったとしても、戦争の原理に従うことに変わりはない。

追加するとすれば3つ

ここで追加するとすれば「心の涵養」と「知の教育」と「AI」であろう。
どんな武器、手法を持ってしても、戦いは「人間がする」
その人間が「どんな人間であるのか!」が世界を決める。
この本で語り切れないのは「その部分」である

人生100年大人の学びで見ると

世界が激変する今、情報ツールがいろいろ揃った時点であることが奇跡のように思える。どんなに技術が進んでも、ハリウッド映画の戦いは1:1(Many)がクライマックスシーンである。我々は、どんな人間であるのかが問われ、出会った機会で、自分は何をすべきか問われている存在なのである。

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