【帝王学「倫理」第三十四講 「先神事後他事」】杉浦重剛著 「倫理」より[YouTube]日本の神は、先祖や偉人です 西洋のように、想像上の神ではありません 先祖を崇敬することで、現在の自分たちが 正しい道に進めるのです それが、大和精神で一貫しています

今日九月十三日は 乃木将軍が明治天皇の後を追って殉死された日 ですので、いくつかのお話しと 山鹿素行の「中朝事実」についてお話しします。
順徳天皇の書かれた「禁秘鈔」(きんぴしょう)に 「朝廷の仕事は、神事が最優先で、他のことは その後です。朝晩、神(祖先)を敬うことを 怠ってはいけません」とあります。

順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子で、承元四年に 天皇になりました。十四歳でした。 小さい時から、頭が良く、成長するにつれて本を読み 和歌が上手で、ご自身で「八雲抄」 「禁秘鈔」を お書きになりました。 奈良時代以降、和歌を嗜む天皇は多かったですが 書物にする方は少ないです。

順徳天皇の当時は、武家が独裁の時代で 後鳥羽上皇はこれにお怒りになって 鎌倉幕府を倒そうとしました。 順徳天皇はその謀議に加わっていました。 承久の変で、朝廷が敗けて、後鳥羽上皇は隠岐島へ 順徳天皇は御譲位後、佐渡へ流されました。
ここで、鬱々として二十二年、四十六歳で お亡くなりになりました。
御歌に 「いざさらば 磯うつ波に こと問はん 沖の方には なに事かある」
順徳天皇が、敬神を一番大切な仕事とされたのは 日本人の精神の中心要素が敬神だからです。

日本の神は、インドの仏や、西洋の神のように 想像して崇拝するのではなく かつて実在した、祖先を神として敬うのです。 「報本反始」(原点に帰る)のです。
天照大神の時代から、敬神の道を実行されていました。 それ以前では、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 天児屋根命(あめのこやねのみこと)と 太玉命(ふとたまのみこと)に敬神を教えました。

人間が天皇になってからは、神武天皇が即位してから 神籬(ひもろぎ)を建てて八神を祭り、国家を護りました。 天皇は天富命(あめのとみのみこと)に命じて 祭祀を集めて、天皇の言葉、鏡、剣を神殿に奉納して 天種子命(あめのたねこのみこと)が 天の神の神事を執り行い、二人が天皇の政治を担当しました。 このことは、天皇が日本列島を支配する上で まず、神を祭り、二人の大臣に命じて、祭祀と朝政を行わせて 祭政一致を実行したのです。
神武天皇は即位四年に宣言されました。 「私の祖先は天から降りてきて、私たちを助けてくれた おかげで、国内は平和で、近海も平穏だ だから、神々を鳥見山(とみのやま)にお祭りして お礼を申し上げる」 その場所を、上小野榛原(かみつおのはりはら) 下小野榛原(しもつつおのはりはら)と命名して 皇租天神を祀ったのでした。 これは、天皇が神事を先にして、敬神を行って国家の 安泰を達成されたのです。

崇神天皇も、そのお名前のように「敬神」で 国を統率しましたし、垂仁天皇も、神を祀ったのは 明白な事実です。
神功皇后が、新羅に遠征する時に まず神をお祭りしてから、戦いを断行されました。 その後、大化改新で、我が国の政治が大改革されました。
孝徳天皇は、蘇我石川麻呂に、「これからの政治で 国民(おおみたから)が喜ぶことは何か」と聞きました。 蘇我石川麻呂は、「国ごとの神々をお祭りして鎮めて それから政治をおやりになるべきです」と答えました 。天皇はすぐに、倭漢直比羅夫(やまとのあやのたいいらふ) を尾張に、忌部首子麻呂(いんべのおびこまろ)を美濃に 遣わして、神をお祭りさせました。
このように、国の政治を刷新する時に、まず 大臣が神祇を祀ることを進言して、天皇がそれを実行する ということに注目してください

我が国では、神武天皇がその先例を行なって 「神事を先にし、他事を後にす」となりました。 歴代の天皇がこれを継承しているのは 言うまでもありません。 大化改新の時の祭祀は一番はっきりした事例です。
光仁天皇(こうにん)は宝亀七年四月の詔で 「神祇をお祭りするのが、国の大方針である 心を込めて行わなくて、どうして幸福になれるのか 神社が祭りにいい加減で、人畜に被害が出ているそうだ 春秋の祭りもサボっているのが多い 災難が来るわけだ 私は心から残念に思う。各地方に命じて 今後このような事がないようにしなさい」
この他、桓武天皇、嵯峨天皇、任明天皇、清和天皇 宇多天皇、醍醐天皇、亀山天皇、後醍醐天皇も 敬神の祭祀を行いました。
臣下でも、三善清行(きよつら)のように 「祭祀を行って、豊作を祈ってください」と言っています。

武家では 源義家が奥州を平定して、鎌倉に八幡宮を建立したり 北条泰時が「貞永式目」の第一条に 「神社を修理して、祭祀に専念すること」とあります。
織田信長は、乱世の英雄ですが、近畿を征定した後 伊勢神宮と熱田神宮を修理して 敬神の気持ちを表したのは 尊王の行動と共に、立派なことです。
秀吉も、それを受け継いで、敬神と尊王を実行して 両大神宮の遷宮を行ったのも見事です。

さて、元禄十七年、徳川綱吉は加茂大祭を復活しました。 平安時代の祭りでしたが、研究者を動員して 祭りの取り進めを考証して再現しました。 皇室も、遣いを送って捧げ物をしました 素晴らしい話です。
筑前に、住吉大社と香椎宮がありますが、応仁の乱で 天下が大騒ぎになり、放置されて建物はボロボロ 人は離散して、祭りごとも無くなりました。 慶長年間に、黒田長政が筑前領主となり その状況を憂いました。 「神が国の主人だから、これを奉って 武威を周囲に示そう」と、新しく作り替えて 神田(しんでん)を奉納して、神主に祭祀を 行わせました。
香椎宮(かしいのみや)は、小早川隆景が 神殿を奉納して、祭祀を行っていました。 子の秀秋が継いで、神田を没収しましたが、長政が これを修復しました。 徳川光圀は、神道を尊んでいました。 寛文年間、国中にあった二千以上の祠と 千以上の寺を壊して、一つの村に一つの神社を置かせて これを鎮守として、その村の人々の心を 一つにして、神を尊ばせました。
松平定信は、領主になってすぐに領内を見て廻り 神社が少なからず破損しているので、村人に直すように 命じ、費用負担が大きいところの年貢を 半分にして支払いを一部免じました。

以上、敬神の例をお話をしましたが 我が国の神々は、祖先、偉人、忠臣などを祀っています。 後世、これらの人々を敬うことは 「本(もと)に報い、始めに返る」 ということなのです これが、道徳の根本にあります。
支那の左伝に、こうあります 「国にとって、祭祀と軍隊が重要である」 国運の興廃はこの点にあると思います。 我が国にとって、これが一番重要です。
明治天皇は、五條御誓文は神前で述べられました。 氷川神社を武蔵の鎮守とされたこと 神を祀る神霊鎮祭を命じられたことなど 敬神の趣旨を発表されました。 そのほか、外国に出る前には、三種の神器の鏡がある 賢所にお参りする、一月の御用はじめには、必ず 祭祀の礼を行っています。
とりわけ、教育勅語では皇祖皇宗の残された徳の精神を 取り上げて、日本の基本精神、教育の根元が 神の尊敬であると示されました。 我が国の、一貫して普遍の原理です。

人生100年大人の学び

発見が二つあった。一つは日本の神々は、祖先であって西洋の人間とは別の存在というところ。二つ目は、それゆえ、祖先を敬うことが現在の自分に立ち返ってくるための手段となるということ。分かち合いの精神が、世界に広まると、奪い合いの世界が消えてゆくという、シナリオが浮かんだ。

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