【帝王学「倫理」第三十六講 「酒」】杉浦重剛著 「倫理」より[YouTube]酒は百薬の長、人との付き合いを潤滑にします しかし、国を滅ぼすような害もあります 例を挙げながら、ほどほどが大切 というお話しです

新年の御進講なので、酒の話です。
正月は、門松、〆縄、屠蘇(とそ)で正月を祝います。
屠蘇は、山椒、肉桂、桔梗などを袋に入れて 酒に浸して作ります。
神を祀るときの酒を神酒と言います。
大嘗会には黒酒(くろき)、白酒(しろき)を供えます。
新年に、皇族、大臣、各国代表が宮廷で祝賀宴をします。
官民の表彰には、金盃、銀盃、木盃を授けます。
民間でも、年賀や結婚式などで酒は欠かせません。 支那でも、西洋でも同じです。 物事には必ず、良いところと悪いところがあります。 酒も同じです。

歴史上の、例をいくつか取り上げてみましょう。
我が国の歴史では、素戔嗚尊の八岐大蛇退治でしょう。 酒を飲ませて、首を切り最後に叢雲の剣を手に入れました。
応神天皇の時代に、百済から仁番(にほ)という 酒造家たちが献じられました。 その中の、須須許理(すすこり)が御酒を献上すると 天皇が歌をお作りになりましたと古事記にあります。
応神天皇の十九年に吉野にお出かけになって 地元の人たちが、お迎えして酒を飲んで歌を歌い 歌が終わって、口を叩いて笑いました。 これが、地方巡行の時の習慣になりました(日本書紀)
後世では、豊臣秀吉が千成瓢箪を馬印にして 天下を統一したのは快挙です。

支那では、禹王の時に、世儀狄(よぎてき)が初めて 酒を造ってから、儀式やお祝いごとに使ったそうです。 地元の人が集まって飲む機会を郷飲酒(きょういんしゅ) として、支那の礼記(らいき)に作法が書かれています。
お迎えして、挨拶して、譲り、尊敬し、献杯、返杯など 上下の親和と、礼と譲を規定しています。 お酒は、人々の交流を潤滑にする最善の方法でしょう。
高橋担堂の詩の中にも飲酒説、答諸友勘酒があります。 「豪華な装飾品よりも、酒が人と仲良くなる方法だ」 というわけです 精神を快活にする働きもあります。
曹操は、「憂鬱さを払ってくれる」と言いました。これを 蘇東坡は「掃愁帚(そうしゅうそう)」と呼びました。
体にもいいことから「酒は百薬の長」とも言われます。
歌人、詩人、美術家は酒を楽しんで超然として 生きてきた人もいます。 我が国の歌人、大伴旅人も酒を愛しました。
支那では陶淵明、李白、白楽天 我が国では、菅原道真、藤田東湖など取り上げると キリがありません。

以上、酒の効用ですが、弊害も少なくありません。
禹王の時に、儀狄(ぎてき)が酒を作って献上しました。 禹王はこれを飲んで 「美味いが、後世酒で国を滅ぼす奴が出る」 と言って、儀狄を追放しました。 後の桀王(けつおう)が大量の酒を作り、大酒に浸って 政治を怠り、湯王に国を滅ぼされました。
湯王の子孫である、紂王(ちゅうおう)も 酒池肉林を実践して国を滅ぼしました。
暴君とか暗君とかは、自制心がなく酒色に溺れ 国を滅ぼしています。
唐の名君と言われる玄宗帝でも、酒色に溺れて 大乱で都を廃墟にしてしまいました。
竹林の七賢は、いつも酒を飲んで風流を嗜み 国政を放置しましたから、結局、国は滅んだのです。
西洋ではアレキサンドル大王がいますが 大酒飲みで間違いもするし、大事な部下を殺してしまったり 部下のところで大酒を飲んで、最後には病死しました。 後世はその早世を嘆きました

我が国ですと、北条高時が、鎌倉幕府の 勤倹尚武の精神を忘れて、酒色に溺れて 家を滅ぼしました。
一方、南宋の岳飛は大酒飲みで、飲むと数斗を飲みました。 しかし、高宗が「河朔まで領土を広げたら、飲んでも良い」 と言われ、三十九歳で殺されるまで、酒を飲みませんでした。

以上、酒の利害をお話ししましたが、我が国では酒税は 固定資産税に次ぐ巨額な税収ですので 売り上げを伸ばすのが良いのですが。

孔子は言っております 「酒は乱れない程度に飲むのが良い」

人生100年大人の学び

酒の歴史から話始めて、その効用と、その弊害について、国内外の例を引用して、とても説得力があり、バランスの取れたお話になっている。どんな事象でも、我が国と外国、歴史、意見の賛否を必ず講話に入れている。帝王学は「聞くところから始まる」という立場が貫かれている。

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