菅原道真公の教訓に 「日本人の学問は、日本人の精神で 漢の学問を学ぶべきだ」とあります。 和魂漢才は、この言葉から生まれました。
我が国には、建国の神代の時代から道徳(生き方)の すぐれた精神があります。 天照大神が、鏡、剣、霊で知・仁・勇をお示しになり 大国主命が、領土を皇室に献上したこと、 弟橘媛が身を投げて、日本武尊を救ったこと 崇高な生き方の例が、漢の経典が来る前から沢山あります。 君に対する忠心は民族の気風です。
応神天皇の時代に、漢からの書物が輸入され 奈良、平安朝では、漢学の研究が盛んになり 詩や、文章も多数作られ、文化が盛り上がりました。 このような場合には、支那文明に心酔して謳歌するのは 勢いがあるので、やむを得ないのですが 孔孟の教えは忠孝の道徳で、日本精神と同じはずです。しかし中味をよく調べると、支那の国の考え方は、日本の 国のあり方(国体)と相入れないところがあります。 それを、道真公は「和魂漢才」として警告を発したのです
我が国のあり方(国体)との違いをお話しします。 支那は暗愚な人民を指導するために 天から頭もよく、人格の優れた聖人を遣わせます。 聖人が世の中に現れて位に上って天下を治めます これが、天子です。 ですから、原則論として 天子は民を教化できる徳を持っているのです。 徳がなければ、天子の資格がないのです 他の徳のある人が天子になっていいのです。 ですから、易姓革命しかないのです。
夏の桀王が、暴虐を尽くしていた頃 殷の湯王が、これを滅ぼそうとして最初に 人々に言いました 「私の言うことを聞いてくれ。単に戦がしたいのではなく 夏があまりに悪政なので、天が私に命じて討伐させるのだ」 湯王は桀王を滅ぼして、国を平定し、人々を安心させたので 後世、人々は湯王を聖天子としました。 殷の紂王がめちゃくちゃで、周の武王が征伐して 天子になったのも、同じです。 このように、臣が君を殺すことが実行されてそれで 湯王、武王は名君と後世讃えられるのです。 支那は四千年の歴史で、大部分は追い出しの革命です。
ここで、革命のご説明です ある系統の王者を倒して、別の系統の王者が 代ることです。その時系統の名前が変わるので 易姓革命なのです。
これとは別に、西欧のレボリューションを革命 と訳していますが、これは 国家の全組織を破壊して、新組織を作ることです。 例えば、王政を廃して共和制を作ることです。 これは、支那の易姓革命とは別のものです。
我が国では、天照大神からの血筋を引く人が 永遠に日本を統制するので、君臣上下(しょうか) がはっきりして二千五百年以上、一度も混乱していません。 これは、日本の長所であり、支那の国風と全く違います ですから、支那の学問が好きで、尊敬して 追っかけになっても、日本人は精神の根本が 日本人でなければならないのです。 これが「和魂漢才」の意味です
和魂漢才」をさらに広げてみますと、仏教も同じです。 仏教はインドで生まれ、広まったものですから 我が国のありかた(国体)とは違って当然です。
これを学んで信仰するときも 「和魂」を忘れてはいけません。 神仏を一緒にするのは、「和魂」を忘れているからです。 鎌倉時代、足利時代は特に取り上げるものはありません。
徳川時代に入り、日本と支那の学問が盛んになりました 孔孟の教えに傾倒して、日本を卑屈に考える風潮が出ました。 荻生徂徠が、孔子の銅像に 「私のような日本の野蛮人がお参りしました」 と書いたようなことがありました。
ここで、水戸光圀は「大日本史」を編纂して 日本のあり方(国体)を明確にして 大義名分を明確にしました。 その後、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らが次々と 国学を研究し、日本人本来の精神を発揚しました。 伊勢貞丈は「幼学問答」で 聖人の教えは、「善人になれということです 中国人になれと言うことではありません 他国の教えの通りにしなさいと言うのは 聖人がすることではありません」 と言っています。
山崎闇斎は、はじめは朱子学を学びましたが 最後は神道にたどり着きました。 また、山鹿素行は「中朝事実」で 「外国に比べて、我が国が劣っていると言う人たちがいる。 しかし、我が国は神代の時代から 一貫した治世が行われている。 外国の良いところを取り入れて、我が国の国体を 続けることが大切だ」
明治の時代になりますと、西洋の学問、風習が ドッと流れ込んできました。 倫理、政治、宗教、文芸や生活様式などに 人々が極端に酔いしれて、困ったことも起こりました。
たとえば、個人主義、社会主義、自然主義、享楽主義 など、皆そうです。 最近ではロシアの革命を見ると、社会主義の悲惨な 状況は、見るに耐えません。
西洋文明の悪い影響に気をつけるべきです ロシアの文学などが輸入されて読者が多いのです。
明治二十一年には、西洋文物への心酔を批判して 国粋保存主義が提唱されました「日本主義」です。 言い換えると「和魂洋才」です その機関紙が「日本及び日本人」です。 明治二十三年「教育勅語」が公布されて 日本人として守るべき道徳の手本をお示しになりました。
我が国は昔から、外国の文物(S/W、H/W)をよく学んで その長所を取り入れ、短所を修正して文明を発展させてきました。 今後もそれは重要です 英国からも、フランスからも学ぶべきです。
しかし、その日本古来の精神は捨ててはいけません 平安朝で「和魂漢才」が言われたように 大正時代では「和魂洋才」とすべきなのです。
人生100年大人の学び
過去を否定して、権力を奪う支那、そう言われて見ると欧州も領土争いで支配者が変わっている。日本だけが、天皇という血統で受け継がれてきた。王位争いは起こらずに、国が続いている。126代目の天皇で、二千六百八十年になる。
次の時代の、持続社会のキーワードが、この中にあると、確信した。