いまこそ「渋沢栄一」
渋沢栄一を取り上げるのは2つ狙いがある。
一つは、幕末から明治という時代で「時代の急変」に「先見性」を持って日本の仕組みを作り替えられたのはなぜか?
もう一つは、現在のグローバリズムを渋沢栄一の考えで見直すとどうなるのか?
である。
それゆえ、この著作の解題もその部分に焦点を当てる。
渋沢栄一の起業家精神の集大成
著者鹿島茂氏は明治大学教授で専門はフランス文学である。
それゆえこの本は、「渋沢栄一」が徳川昭武の随行員として1867年にフランスに行って何を見て、何を考え、そしてそれを咀嚼し、その後の明治という時代に反映させていったかを描き出している。フランスで見た西洋が、「渋沢栄一」の幕末の類を見ない合理思想とどう結びついているかを、考証している。特にフランスでのサン=シモン主義との出会いが、「渋沢栄一」の起業家精神を奮い立たせていることが、鹿島氏のフランス語文献解読で丁寧に説明されている。
山本七平著【渋沢栄一・近代の創造】をも包括する内容
前回、ご紹介した【渋沢栄一・近代の創造】山本七平著が尊王攘夷思想から、第一国立銀行の設立までの動きを追っているのに対し、鹿島氏は設立後も含めた「渋沢栄一」の事業内容まで含めてまとめ上げている。
事業内容の詳細は、下巻の【渋沢栄一 下 論語編】にまとめられ、次のブログでアップする。
著者がヒルズ族に語った言葉(2007年)
資本主義と言うのは、自己利益の最大化を狙う人間(ケインズの言うエコノミックマン)たちが参加するバトルロワイアルのようなものだが、最終勝利者になるのは、どう言うわけか、強欲一辺倒の参加者ではなく、モラルを自分の商売とみなす「渋沢栄一」のような参加者と決まっている。
理由は簡単で、その方が永続的に儲かるから。金儲けは決して悪いことではないが、自己利益の最大化だけを狙っていくと、どこかで歯車が逆回転し始め、最後は破産で終わる。世間や社会が許さないと言うことではなく、資本主義の構造がそのようになっているから。「損して得とれ」とはよく言ったものだ。云々
ウェーバーから外れたフランスと日本
どちらもプロテスタントではない。
「渋沢栄一」は近代資本主義の枠組みを理解する思想をすでに身に付けていた。
それは、実直な実務型の父(晩香)に「商い」の実務を仕込まれたことに由来する。晩香は目先の利益ではなく、製品改良による品質の向上で「長期の信頼」を得ることを最重要に考えていた。「論語と算盤」の原点である。
一橋家への貢献
一橋慶喜に仕官で傭兵採用実務をこなす
同時に一橋領地の活用と兌換藩札の採用
藩は、元手なしに利息を受け取る仕組みになる
慶喜が徳川将軍に(1866年)幕臣栄一
パリ博へ(1867年)
上海・スエズ運河・マルセイユでフランスに到着
ナポレオン三世(善意の帝国主義)の歓迎
サン=シモン主義の思想があふれていたスエズ運河計画とパリ博覧会
サン=シモン主義
マルクス主義:富めるものをなくす
サン=シモン主義:貧しきものをなくす
当時、ナポレオン三世とサン=シモン主義が目指した社会改造プラン
① 不動産ではなく、企業の将来性に対するベンチャー金融の設立
② 生産と消費を繋ぐ流通網としての鉄道網の完成
③ 新しい産業の担い手になる企業家や技術者の養成と、それらを受け入れるための国民意識の啓蒙。(パリ博覧会の狙い)
サン=シモン主義とフリュリ=エラール(フロリヘラルト)との出会い
フリュリ=エラールは日本に記録はほとんどないが、鹿島氏はパリの電話帳から子孫を見つけ出し、情報を得ることに成功。当時フリュリ=エラールの設立したフリュリ=エラール銀行は外務省の御用達であった。そしてフリュリ=エラールはフランスの日本総領事になる。
そして、フランスは英国・ドイツから遅れた金融制度をナポレオン三世のクーデター後(1852年)から急速に整備してゆく。そして、渋沢栄一はそのシステムを1867年に知ることとなる。
「株式会社、銀行、鉄道」三種の神器
サン=シモン主義者のミシェル・シュヴァリエと銀行家のペレール兄弟(ポルトガル系ユダヤ人)が鉄道網を展開。イギリスのロスチャイルド銀行も支援。
1852年ベンチャー・キャピタル銀行 クレディ・モビリエ(動産銀行)設立
(ロスチャイルドと対決)そして、成功する。
がしかし、ロスチャイルドはクレディ・モビリエと同じ仕組みの銀行連合を作り反撃。その中にサン=シモン主義者も入り、ソシエテ・ジェネラルを設立(ロスチャイルドは抜ける)これは、クレディ・モビリエにリテール機能を付加しており、預金も利用できる仕組みであった。
その後発性ゆえ、日本を市場として狙ってきた。
新発見は「渋沢栄一ーフリュリ=エラールーソシエテ・ジェネラルーサン=シモン主義」の流れとなった。
昨日は攘夷、今日は洋服
パリで栄一は、視察団の会計役となる。経費削減に勤め交渉もするし、使節団の社交にも参加する。
すなわち、フランスの仕組みを体験する。
後者で言えば、人を見定めるのが社交界、そしてお互いの意見、人格の尊重が重要であることも肌で感じる。
ヨーロッパ型「官」と「民」を見抜く
「官」「民」が調和している姿に立ち会うことで、「民」の未来を確信する。
当時の武士は「お金」を蔑み、商人を見下した。
商人は利を得て、武士を馬鹿にしていた。
そして、「民」が産業者として適正な利益を追求できる仕組みが「株式会社」へとつながる。
1868年末 明治政府の日本に戻る
静岡に蟄居した慶喜から静岡藩に仕えることを勧められるが、断る。そして栄一は株式会社「商法会所」の設立を目指す。金融商社として活動し、新政府の発行した太政官紙幣を含めて出資金とした。(半官半民組織)
値上がりを予測し、太政官紙幣で産物を買い、的中。
しかし、正金との換金率が政府方針で変動し、商法会所は大幅に損害を被る。
それに対し、民営化することで、経営を安定化させた。
大蔵卿大隈重信との邂逅
大隈に栄一の産業振興が「国のためにもなる」と説得され大蔵省に勤める。
そして、日本の金融制度のグランドデザイン役を果たす。
1869年には財政、金融、地方行政、殖産、駅逓などを制度化した。
初めは同僚から嫉まれたが、この実績で尊敬を集めるようになった。
最初は反目した同僚も出来上がったものを見ると澁澤を褒めた。
「考へもよく、計画も立ち、それに熱誠以て事に当られたから六ヶ月も経つと、先に反対した者等は大いに驚いた。/〇今度は不平党が謝罪に来た。最先に反対に来たのも玉乃であつたが最先に謝罪に来たのも玉乃であつた。/〇彼等曰く『渋沢君はとても我々の及ぶ所でない、誠に得難き人である。先に無礼な事を言つたのは我々の思違ひであつて、実に相済まぬ』といつて後には皆渋沢君と懇意な間柄となつた」と渋沢は記している
3大テーマ
①租税を米納から金納に換えること
これは米の流通の整備、金納税制の整備を要する
②鉄道の敷設
米の流通にも必要な重要事項
前島密とイギリスの協力で乗り切る
「こんな風で四方八方から非難攻撃に逢つた大隈さんの鉄道敷設論を支持するのは伊藤公独り位であつたが、幸ひにも外遊中の黒田清隆伯が帰朝して、大隈さんの説に加担してくれたので、兎も角東京、横浜間の鉄道も無事敷設せられる様になり、全部竣工したのが明治五年新橋、横浜間の十八マイルで、九月十二日の開通式には畏くも明治天皇陛下が親しく御臨幸にならせられた」
もちろん、この鉄道敷設の実行に当たっては、鉄道建設の予算の作成やらなにやら、すべて改正局の手に委ねられていたので、渋沢は前島とともに、大車輪で案件を処理していったのである。
③貨幣制度、公債制度および銀行制度
イギリスを知る伊藤博文は銀行制度は米国に倣うと自ら視察に行った。
渋沢は自分が実体験してきたゴールド・バンクが理想的であるとしながらも、日本の混乱した状況を見るに、なにはともあれ、銀行というものが急速に必要なので、正金の準備なしでスタート出来るナショナル・バンクをとりあえずは試してみようという方に傾いていた。
1871年廃藩置県
当時、中小の藩についていえば、ほとんどの藩が藩札の償還などおぼつかない破産寸前の状態にあり、自主的に版籍奉還を申し出ているところも少なくないので、これは借金の肩代わり、つまり藩札の回収さえうまくやれば問題はない。 また官軍についた雄藩でも、長州藩のように戦費の負担で財政は破綻にちかいところが多いから、廃藩置県を切り出しても、さして、困難を呼ばないだろう。 問題は、ただただ薩摩藩である。薩摩藩は、藩政改革により、藩の自主的管理体制が確立され、日本の中の独立の小国家の様相を呈してきたからである。
西郷隆盛の存在感
西郷隆盛は、戊辰戦争の過程ではあきらかに、革命勢力の中心人物だった。ところが、戊辰戦争にけりがつくと、中央政府は大久保利通に任せ、鹿児島に帰って、藩政改革に精を出した。これは薩摩藩にとっては、まことに頼もしいことだったが、中央政府にとっては大きな不安材料となった。西郷は中央政府(革命)を取るのか、薩摩(反革命)を取るのか、判断がつきかねたからである。
幕府時代の負債処理
まず、それも維新前の借金は旧公債と称して利息の付かぬ証書で渡し、維新後のものは新公債と称して年四分の利を付した。それより前の天保十二年水野越前守の棄捐と称えて総て民間の貸借の訴訟を取り上げないという制度を布いた以前のものは、いかに貸借に明瞭なる証拠があっても、棄捐という制度によりて取り上げぬこととした」
つまり、今は国庫がカラッポでも、いずれは償還できる財源もできてくるだろう。おまけに、新公債は利息付きだから、与えられる方でもうれしいにちがいない。かくして、渋沢の案出した公債という打ち出の小槌によって、廃藩置県の混乱はほとんど起こらずにすんだのである。この渋沢の快刀乱麻の活躍を何よりも喜んだのは井上馨だった。
明治時代は人を見た
明治の人は、人材の採用に当たっては、まず、その人物を見るにしかずとばかり、なにかを口実に、直接その人の家を訪問するということが多かったらしい。たしかに、そういわれてみれば、顔を見て、話を聞けば、人間の90パーセントは評価できてしまうものである。明治政府の強さは、こんなところにもあったのである。
渋沢の元勲評
1に西郷:仁愛に打たれる
大久保は低い評価:権威的
渋沢の人物評というのは、その理知的で合理的な性格にもかかわらず、人物の徳や礼、さらには情など、人間的な価値にプラス・ポイントを置く、きわめて儒教的なものであったことがわかる。『論語』にはすべてがある。人間にかんしても。これが、渋沢の最終的な結論だったようである。
栄一は1872年大久保と喧嘩別れで大蔵省をやめ、民となる
2つの「第一国立銀行」
渋沢が三井と小野組を指導して1872年に創立の許可を得させた「第一国立銀行」と、渋沢がのちに下野して、監査役として1873年に開業させた「第一国立銀行」は、名前こそ同じだが、その実、ほとんど別の組織で、業務の実態もまったくちがっていた。
前者は官主導、後者は栄一による民主導(サン=シモン的)である。
会社は社会変革の最も重要な武器
渋沢の実業界入りは、今日の役人の天下りとはまったく意味がちがっていた。渋沢は、フランスで学んだサン=シモン主義的な「私権」で士農工商という身分制度を打破し、官尊民卑の価値観を転倒し、産業によって富国強兵をなしとげようという「革命思想」に燃えていたのである。
つまり、同じ「私」でも、三野村利左衛門が考えていた「私」と渋沢の頭の中にある「私」とでは、まったく似て非なるものであった。
三井入りを断り、岩崎と喧嘩する
強民富国を目指すプランナー
人に事業を託し、その人を支える栄一
海運、紡績、電灯、瓦斯会社・・・
公正無私の志
To be continued to 【渋沢栄一 下 論語編】
この著作は渋沢栄一の生涯で一番影響を受けたパリ博覧会に関するフランス語文献からの解読が、新事実あるいは、栄一の思想の遍歴を追いかけているので、とても新鮮である。
この著作は渋沢栄一の生涯で一番影響を受けたパリ博覧会に関するフランス語文献の解読で、新事実あるいは、栄一の思想の遍歴を追いかけているので、とても新鮮である。歴史は流れ、人類は進歩しているはずだが、ある時行き詰まる。そんな時は、人生100年大人の学びでは、歴史を再チェックするのである。
【渋沢栄一 上 算盤編】は、今だからこそ読める良書である。